2001年のエッセイ

いきなりホームページ! 2001年 2月18日
餅と茶漬け 2001年 2月27日
パソコンとスクリーンリーダーと 2001年 7月 1日
新しい読書 2001年10月14日
思い出の東京… 2001年11月23日
伊豆半島下田へ…
横浜下車…


いきなりホームページ! 2001年 2月18日

 自分のホームページを持とう!と思ったのです。

 そう思ったのは一体いつだったのか?と思い起こすと、1998年10月には、間違いなくそう思っていたのです。なぜなら、そのための準備を始めていたからです。でも、そのときはホームページをどうやって作ったらいいのか?の最初の一歩でつまずいてしまったのでした。

 そして去年、本気で作ろうと準備を始めたのです。
そのためにはホームページとはなんぞや?から学ぶ必要があります。探せば、その手の解説ホームページはいくつもあります。ところが画像をふんだんに盛り込むことで、直感的には良いのかもしれませんが、音声でやっている者にとっては、いまいち、いまに、物足りないのです。

 それでもないよりはましということで、ホームページの作り方を解説しているホームページからダウンロードしたものを、徹底的に読んだのです。ただし、読めば分かるか?と言えば、のこぎりの使い方やかなづちの使い方などの大工道具の仕様書を読んだだけで家を建てられるわけではないのと同じで、これからは実践あるのみ!だろうと思います。そういうわけで、こうして作ることにしたというわけです。

 さて、これから一体どうなることやら……


餅と茶漬け 2001年 2月27日

 “世界の快適音楽セレクション”をご存じですか?
NHK-FMで、ギターデュオのゴンチチがやっている番組です。ジャンルにこだわることなく、世界の快適な音楽を流している番組です。この番組、いつからやっているのかな?たまたまラジオのスイッチを入れたとき、関西弁のおっちゃん二人がしゃべっているのを聞いて、おもろいやないかぁで、聞くようになった番組です。
毎回テーマを決めていろいろなジャンルの音楽を集めて、流しているようですが、このところ、番組を録音して、それをBGMに聴きながら、HP作りに励んでいたりします。

 17日の放送でしたか、“餅茶漬け”なるトークがありました。
「えっ?なにそれ」と、聞き耳を立ててみますと……、

  1.  まず餅を焼くんです。およそ焼き上がりましたら、いったん焼き網から下ろしまして、餅のオモテ・ウラに醤油を塗るんですね。
  2. 塗り終わりましたら、また焼き網にそれを乗せて、適度に焼き直すのです。すると、もう想像がつくでしょう。あの醤油の焼けるというか焦げるというのか、なんとも香ばしい香りが、プーンと…。
  3. 塗った醤油が乾く程度に焼き上がりましたら、茶碗に、ご飯をよそいます。量は、三分の一が目安です。それが肝心なところ。それを越えてはいけないそうです。
  4. そしてそこに、さっき焼いた餅を乗せてお茶を注げばできあがりです。

 お茶漬け海苔とか、そんなドレッシングはいっさいいらない、焼けた餅、そしてお茶だけ。
 なんともおいしそうです。


パソコンとスクリーンリーダーと 2001年 7月 1日

 今年1月にパソコンを変えました。以下がそのパーツです。

PC/AT互換機
パーツ名型番価格
CPU(AMD)athlon900mHz THUN.B900SOC.RE19,980
マザーボード(SOLTEK)SL-75KAV-X15,480
メモリーSD128PC133CL3OE(128MB×2コ)11,960
HDDDTLA-30703015,480
FDDD353M31,680
CD/DVDドライブ(HITACHI)GD70008,580
グラフィックボードAGP-V7100-2V1D17,800
ケースTK3001 6,480
合計 - 79,640

 これを組み立てて、OSにWindows2000、スクリーンリーダーに、2000リーダーを入れて使ってきました。動きはいいですよ。やっぱり新しいパーツにしただけのことはあります。
そして先月新しいスクリーンリーダとして、IBMからリリースされた、JAWS(IBM version 3.7)を入れました。
これは、MS-DOSの頃から数えると、これが5番目の“声”になるのかな?……試験的に使ってみて、すぐにボツにしたものは除いてですけど。
この新しい“声”ですが、まだ慣れてないからでしょう、ちょっと違和感があります。声質の違いもありますが、“ま”の感覚が違うのです。これに慣れるのに、多少時間がかかりそうです。
慣れなければならないものに、操作のためのキーファンクションもあります。これも、よく使うものに対しては、とっさにパパッとできるぐらいにはなりたいと思っています。

 この新しいパソコンと音声でこれからやっていくことになるのだろうと思いますが、わたしのメインの用途は、“読書”です。読書といっても、わたしののように目に障害がある者は、プラスアルファの段階を必要とします。

 まず、本を手に入れる手続きがあります。これは誰でも同じですね。晴眼者であれば、そのままページを開けば読むことができます。が、わたしは、“目”を“スキャナ”に置き換えるのです。その手続きはこうです。

 これがわたしの“読書”です。読むとは、目ではなく“耳”なのですね。

スキャナは、EPSON GT-8500WINです。
OCRソフトは、E.typistバイリンガル version6.0と、読取物語EX v4です。
テキストデータを読むためのソフトは、WZ editor V4.0を専らとしています。

 本を読むための具体的な操作は、こうなります。

  1. パソコンを起動して、OCRソフト e.Typist を起動します。
  2. スキャナの電源を入れて接続状態にします。
  3. e.Typistの「スキャナから読み込む」で、スキャナドライバー(twain)を起動します。
  4. スキャナの原稿台にページ1が正しく乗るように本を開いて裏返しに置きます。
  5. 本がずれないようにそっとフタを乗せます。ここで本がずれることがあるので、ずれたら一つ前に戻ってやり直します。
  6. スキャナドライバー(twain)の「スキャン」ボタンを押す(エンターキー)でスキャンが始まります。読み取り解像度を600dpiにしていることが多いので、スキャンが終わるまでに1分ほどかかります。
  7. スキャンが終わると、フタを開き、本を原稿台から取り上げて、次のページにして、原稿台に乗せてをスキャンするを、最期のページまで続けます。256ページの小説であれば、これを129回やりますから、一冊スキャンが終わると、早くて3時間、たいていは4時間ほどかかります。
  8. 全部のページのスキャンが終わると、スキャナドライバー(twain)の「キャンセル」で、e.Typistに戻ります。
  9. e.Typistの「文字認識」の「文字認識」→「全画像認識」でスキャンした画像から文字を抽出する作業が始まります。256ページの小説であれば、10分ほどで終了です。
  10. これが終わると、「ファイル」の「テキスト 名前を付けて保存」です。例えば、"c:\text\book.txt"とします。

 しかし、これで無事に読書ができるか?と言えば、答えはノーです。
問題は、文字の認識率です。例えば、こんな文書が読み取れました。

書籍 老人性骨粗鬆症とは何か
OCRテキスト添削テキスト
生理的た限界を越えて更に官量が減少し、腰背痛やあるし、は病的骨折、すなわち脊椎の圧迫骨折や、大腿骨の頚部骨折などを起こす大を老入性骨粗嶺症、すなわち病気とし て扱;)べきでめると考えているわけですね(図l)。 生理的な限界を越えて更に骨量が減少し、腰背痛やあるいは病的骨折、すなわち脊椎の圧迫骨折や、大腿骨の頚部骨折などを起こす人を老人性骨粗鬆症、すなわち病気とし て扱うべきであると考えているわけですね(図1)。

 左がOCRで出てきた文書です。なかなか読みにくいと思います。それでOCRで出力されたテキストデータをフロッピーにコピーして、NECのPC-9821Nrに持っていきます。ここでやることは、MS-DOS上で動く自作ソフトで、誤認識文字を正しい文字に置き換える作業です。それが終わったテキストファイルに、ちょこっと手を加えたものが右のものなのです。

 というわけで、なかなか読書はつらいよ。でも、読みたいのです。


新しい読書 2001年10月14日

 9月24日に新しいスキャナ、EPSON GT-8700Fを買い求めました。これまでのGT-8500WINは、数えてみると5年使ったのですね。よく動いてくれました。まだ充分動きますし、一度も問題を起こしていません。でも、もうワンランクもツーランクも上のスペックのスキャナが出てきています。本のOCRのためには、少しでも良い画像が得られる方が良いのです。そしてその上を行く理由が、今回満たされることになったのです。
それは、“ADF”です。
これは、 Auto Document Feederの略で、自動紙送り機のことです。と、書いてもたぶんよく分からないと思います。これを書いているわたしも最初意味がよく分からなかったのです。
スキャナの原稿台には、プラスチックのフタが付いています。これを開くと透明ガラスが現れます。ここに紙を乗せるのです。そしてスキャンボタンを押せば、カメラが透明ガラスの下を端から端へと動いて原稿台の紙を撮影するというのが、これまでのお決まりだったのです。
それが、ADFをスキャナに乗せると、逆になるのです。ガラスの下のカメラは動かず、その上の紙が紙の上から下へと動いていくわけです。

 まず、スキャナのフタを取り外し、代わりにADFを乗せて、ADFから出ているケーブルをスキャナ本体に接続します。
ADFを横から見ると、アルファベットのUの字を横にしたような形をしています。上の直線に当たる所が“原稿台”で、スキャンを待っている用紙の置き場所です。下の直線に当たる所が“原稿受け”で、スキャンが終わった用紙のたまる場所です。そして、くるりと180度回る曲線部の最後の所がスキャナのカメラの真上に当たり、そこを紙が通過していくことでスキャンできるという構造になっています。つまり紙は、スキャンが終わると裏返っていることになります。

 試しに原稿台に用紙を10枚重ねて置いて、スキャンを開始させると、自動的に原稿台にある用紙が一枚ずつ下の原稿受けに送られ、数分ほどで10枚全部の連続スキャンが終わりました。これは便利です。これを本のOCRに用いない手はありません。そうなれば、……。

 せっかくのADFを有効に使うためには、本が本のままであってはいけないのです。本が紙の束にならなければなりません。
では、どうしたら、本は、紙の束になるのだろうか?この課題をどうクリアしたらいいのだろう?
本は、紙の束からできているが、背表紙のところで糊付けされているのだから、これを外せばいいよね……となります。

 まず、机に薄いベニヤ板を置きます。そこに本を置いて、背表紙から5ミリぐらいのところに物差しを当てて、それに反ってカッターナイフを走らせてみました。ところが、まっすぐカッターを、しかも百何重枚もある紙の束を貫通させるなんて無理でした。すぐに曲がるし、そもそも危ないし。

 次に、スライドカッターを用意しました。これは物差しにカッターが付いているものです。これを本の背表紙から5ミリほど内側に当てて、スライドレバーをスッと引けばきれいに紙が切断できる……、はず。ええ、確かにきれいにカットできます。でも、一度にできる用紙の数はせいぜい3枚です。残りの百何重枚を一体どうやって?で、暗礁に乗り上げてしまいました。

 結局悩んだ末、近所の文房具屋に行って、裁断機を買ってきました。学校にいるとき、“だいこんぎり”と呼んでいたやつです。これだと相当の紙の束でもバッサリ切ることができると思ったからです。
試しに、文庫本の背表紙をズバッと切り落とそうとしてみました。が、刃のレバーがちょっと食い込んだだけです。しかもレバーが外側にずれてしまいうまくいきません。
そこで、いろいろと試した結果、文庫本に使われている紙なら、15枚程度までと分かったのです。それ以上だと、切り始めはいいのですが、後にいくほど、刃が外に捻れてうまくいかないのです。もちろん紙の厚さにもよります。厚紙ほど枚数が減ります。つまり、本の背表紙の一発切断は無理!だったわけです。 従って、本を15枚程度の紙束にぶつ切りにすることが必要となります……。いろいろと考えた末、これは手作業でやるしかないかなぁです。

  1. 裁断機に切断する本の紙幅を決めるための紙押さえをセットしておきます。文庫本なら、幅10.5センチなので、わたしは9.8センチにセットしています。
  2. 本の表紙を開いて、背表紙と本の本体の糊付け部分を指で押さえながら、ゆっくりと上から下へとペリッパリッペリッパリッと外していきます。これが全部できたら、本を裏返して、裏表紙と本の本体の糊付けも外し作業をします。これで、表紙、背表紙、裏表紙になった部分と本の本体とが完全に外れます。
  3. 本の本体の最初のページから10枚を数えて、そこをしっかり開いて、20ページ目と21ページ目の間の糊付け部分をこれも上から下へと、指と指でゆっくりと紙が破れないように開くようにして取り外します。
  4. 取り外した10枚の紙束を裁断機に乗せます。前もって、本のサイズに合わせて、紙押さえをセットしてあるので、そこにきちんと外した紙束を乗せて、紙押さえでしっかり押さえながら、裁断レバーを下ろしていきます。もうあと数センチという最後でレバーが斜めになって、裁断失敗が起こることがあるので、最後の最後に気を抜かないようにレバーを下ろします。
  5. 裁断できた、例えば文庫本なら、9.8×14.8センチの紙束を表を下にして裁断後置き場として決めていた場所に上下裏表間違えないように置きます。
  6. 3〜5のプロセスを繰り返します。256ページの文庫本なら、10枚の化紙束を12回やると、13回目は4枚の紙束で終わります。

 こうして紙の束になった本だったものをADFでスキャン。新たなOCRの手続きが始まりました。とにかく、本を開いては原稿台に乗せる手間暇がなくなったことは良かった。ページが傾くこともなくなりました。本をばらす手続きに20分ぐらいかかりますが、OCRそのものの能率は良くなりました。ただ、本が本でなくなってしまうことに、少なからず罪悪感を感じてしまいます。なので、思い入れのある本にこれができないのです。特に医学関係の書籍は、一冊数千円から一万円前後の価格のものもあるわけで、それをばらすというのは、今のところできていません。とりあえず、文庫本からですね。とにかく「割り切り、割り切り!」と言い聞かせて最初の背表紙外しに手を染めています。なんか、手を染めるとかくと、いかにも悪の道に落ちたみたいな感じですねぇ 笑い。


思い出の東京… 2001年11月23日

 東京。そこは高校を卒業して、初めての一人暮らしを体験した街。短い間に、いろいろなことがありました。新しく知り合った人たちがたくさんいて、時間を忘れて過ごした時間も数限りなく。もちろん勉強のために行ったのですから、勉強もしましたよ。だけど、オフの時間は、やっぱりそれなりに… ねぇ 笑。

 今となってみれば、概して楽しい思い出。ただ、そのときはそうでもなかったはずなんですけどね。 その中でいちばんは、やっぱり、眼疾の増悪。独りで生活を続けるには、ちょっと無理がありました。

 あれから20年を経て、とてもなつかしくて、甘くてほろ苦くて、でもとても肯定的な、とにかくそういう感じです。

 以来、東京は、およそ2、3年に一度は、それぞれ理由を見つけては行っていました。友人の結婚式だったり、妻の親戚知人がいるからとか、エトセトラ。
そして今回、4年ぶりに行ってきました。4年も間をおいたのは初めてのことです。なぜそんなに行かなかったのだろう、決してそれほど遠いはずもないのにね。

 結婚して満15年。子供たちが『二人で行ってきていいよ。留守番しているから』と、生意気なことを言ってくれて、ったく……ねえ。ということで、わたしは、20年ぶりに自分の生きていたところを見たくなって、妻は、伊豆半島に行ってみたいという希望があって、『じゃあ行こう』と決めた旅行だったのでした。

 羽田空港を降りたって、モノレールと山手線で有楽町駅。そこから地下鉄有楽町線で文京区へ。果たしてあのボロアパートはまだあるだろうか?21年前のあの時すでに相当古くてぼろかった木造アパート。99%ないだろう。もしあったら奇跡だなと思いながら、駅を発車する電車のズーンとした加速度を楽しんでいました。

 あの頃、右も左もわからなかった。ただ学校に近いという理由だけで不動産屋に進められるまま、決めてしまっていた。なぜ市ヶ谷の不動産屋にしたのだろう?……そうか、叔父さんが神奈川に住んでいて、もしかして、あそこに行けばいいと薦められていたからなのかもしれない。とにかくいくつか物件を定時されたはずだが、同行していた親も含めて、見る目がなかったと思う。判断する能力がなかった。眼疾が進行するかもしれないという不安があって、学校にただ単に近いという一点に執着していたという気もする。…これが一番かな。

 当時、最新バリバリ、シルバーのボディーに黄色のラインが入った地下鉄有楽町線は、田舎から出てきたばかりのわたしには、とてもカルチャーショックでした。
あの頃と同じ有楽町線に乗って、同じ加速度で駅を出発する感覚を味わいながら、『20年の隔たりはここにはないな』と思いながらも、当時ターミナル駅だった池袋が通過駅のひとつになっていることに、時代の変化を感じて『やっぱり20年は昔だよな』と、しみじみ思っていると、車内のアナウンスで、降りる駅が近づいていることに気がつきます。

 地下から地上に出るところで……
こっち……、この階段から地上に出て、道路を渡って、右……、ここさ、ここだよ」と歩いてきて指さすところに、妻はわたしの話していた木造アパートは影も形もないと言います。
なるほどないのです。やはり奇跡は起きていなかった。道路も歩道も昔のまんま。だけども建物は、その奥にあった大家さんの家もろともに、きれいさっぱりと消えてなくなっていて、その代わりに、そこにはなんとかというこぎれいなビルが、あの頃とは全く別の風景となってピタリとはまりこんであったのでした。
「じゃああそこにスーパーはあるかい?あそこは何が建っている?」といくつか指さし尋ねていくうちに、この一角にあったわたしの生活を支えてくれていた全てが丸ごとなくなっていることに気づかされるのでした。
まだ足を延ばせば、もしかしてまだあの頃のまま残っている何かがあるかもしれないとも思ったのですが、それほど未練はありません。時間がおしていることもあったけど、なつかしの階段を下りて地下鉄有楽町線。次の場所へと向かったのでした。

 池袋で地下鉄を降りて、西武池袋線へと向かいます。一瞬方向を疑ったりもしたけれどもそこはそれ、歩き慣れた道筋です。どうということもなくゆけるところが、昔とったきねづかというやつなんでしょうね。
西武池袋線ふたつめの駅、東長崎。ここは東京に住んで1年近く経って、自分で探して移り住んだ場所。当時わたしなりにいろいろと考えた末に、ここがいいと決めたところですから、なつかしさもひとしおです。
駅もまんまだし、駅前を歩いてみれば第一家電もあるし東急ストアもある。駅の向こう側に出れば西遊もあった。でも、さすがに20年はフタ昔。個人でやっているお店でまんまのお店は、妻に言葉で伝えてもらうが、それが当時もあったのかがなかなか思い出せませんでした。
それでも懐かしいお店がいくつかあって、よく立ち読みしに行った本屋とか、米屋とか、だよねって思いながら、ゆっくり歩いて10分ほど歩いた先に、「あそこさ、あそこだよ、どう?どうなってる?」と指で示して妻に尋ねます。
「エッ?どこのこと…」
「あのあたりだってば」と改めて方向を確かめながら、手で指し示してみます。
「何もないわよ」と、怪訝そうな妻の声。
「え……?」

 そこに行ってみれば、やはり何も建っていません。そうなんです。アパートが建っていた所は、一面砂利の原になっていてどうやら駐車場となっているみたいなのです。様子からすると、ごく最近、壊して更地にしたとも受け取れそうな具合です。もしかしてここならばと多少期待していたのですけど、残念な結果に終わってしまいました。
その後、いろいろ歩いて、自分の活きた足跡をたどってって思っていたのですけど、東長崎駅に戻る道すがらも、駅周辺を歩いてみている間も、なんとなく過ぎ去った過去と同じものを見つけようとすることにだんだん意欲がしぼんでくる感じになって、風景を伝えてくれる妻にも『もう充分だ、ありがとう』の気持ちになってきます。
「ありがとう。来てみて良かった。さあ行こう」と、駅に戻ることを提案したのでした。

伊豆半島下田へ…

 

 池袋の西部デパート1F2Fを歩いてみます。さすがに田舎のデパートとは広さのけたが違う。歩いているお客の数も違う。品数も違えば、なにもかもって具合です。
せっかく都会のデパートに来たのですから、やっぱり『記念の品をプレゼントしたい』
少しの時間をショッピングで楽しんだ妻と共に山手線。新宿に向かいます。手にはHermesとロゴの付いた手提げがあるのだから、わかる人はわかるよね 笑。

 新宿発伊豆急下田行きスーパービュー踊り子55号。それがわたしたちをその日の目的地へ運んでくれます。
でも、その前にスタンドコーヒーでもあれば、少し自分を暖められるかなとも思って山手線から踊り子号のホームへと移動する間に連絡通路内を探してみるが、見つからない。結局、出発時刻も押し迫ってくるわけで、缶コーヒーでいいでしょうと、列車に乗り込むのでした。
シートはゆったりとして座り心地がいい。前のシートとの距離も広めにとってあって、さすが全席指定のリゾート特急というだけのことはあります。

 話を少し戻しましょう。列車に乗るところで、『切符を』と女性の声がします。彼女らはビューレディーというのだそうです。車掌とは別に何人も乗っていて、車内でのサービスを専門にしているらしい。ふつうなら、走っている途中で、『切符を拝見』と車掌が回ってくるものだが、踊り子号では、乗るところでビューレディーが検札を済ましたのですから、車内での検札はないということです。
車内アナウンスも受け持っているようで、次の到着駅や時刻を一人の女性の声がずっと旅の道連れとなってわたしを楽しませてくれました。
その車内アナウンスが、あの女性タレントの沢田亜矢子を少し若くしたような声なのだ。わかるかな?その女性タレントを好きかどうかは言っていません。その声がいいということだね。とにかくそういうことです。
終点下田に着く頃には、満席だった乗客も1/3ぐらいになっていて、一番たくさん降りた駅は伊東で、次は熱川ぐらいだったかもしれません。

 伊豆半島って初めて行ったんだけど、思っていたよりずっと"山"って感じでした。山、いきなり海って印象なんですけど、間違ってますか?車窓から見える風景を折々に解説してくれる妻によりますと、通り過ぎる山斜面のいたる所にミカンとおぼしき果樹が生えていて、植えてあってというほうがいいのかな、ミカンの実がいっぱいなっていたと言うのです。ああいう風景はやはり温暖な土地ならではのことなのでしょうかね。

 なぜ、伊豆半島の突端の下田だったのか?どうして下田聚楽ホテルだったのか?
それはホームページで検索しているうちに、いいじゃない、ここにしようかって案外安易に決まってしまいました。メールを出してみたら、OKの旨を返信してきたから、よしよしって予約ってなったってわけですね。9月のことでした。

 下田聚楽ホテル

 音声はこれを"しもだしゅうがくほてる"と読むから、そうかもって思い込んでおりましたけど、ホームページのURLで"しもだじゅらくほてる"が正しいのかもしれないと……。
あらかじめメールで視覚障害者だと伝えてありましたし、伊豆急下田駅に迎えにきた送迎バスに乗る時も、ホテルに入る時も白い杖をついていましたから、お互いに"わかりました"という感じありありでよかったです。
見えていた過去があるせいで、目を開けているために、一見して視覚障害者に見られないのです。
目を開いているのに物にぶつかる変なやつと見られるくらいなら、白杖ついているからには目が不自由なのだろうけども目を開けているから変だけど、やっぱ物にぶつかっているよって思われるほうがいいかなってことだね……。
それにしても東京ってのは、本当に上がったり下りたりの段差の多い街です。杖がいかに役に立つかを改めて思い知らされました。

 ホテルの食事は、伊豆の海の幸がいっぱいでした。そんな中でもやはり伊勢エビが目玉でしょう。夜には刺身あり、焼き物ありで、朝食には、なんと伊勢エビがドーンと入ったみそ汁が出てきて、伊勢エビがだしだっていうんですから、すごいですよね。だからといって下田の人がいつでも伊勢エビをみそ汁のだしに使っているなんて思ってはいませんよ。あれは特別なんだってね。
二人で食べきれないほどのたくさんの海の幸を満喫して、ワインを酌み交わしながら2時間かけて食事を食べるなんて、普段ではあり得ないくらい、ゆったりとしたひとときでした。こうして下田の夜はゆっくりと更けていったんですよ。

 翌朝、下田聚楽ホテルをチェックアウトして、まず向かったのは遊覧船による湾内クルーズです。黒船を模してデコレートした遊覧船は、割と観光客でいっぱいっぽくなりました。湾内クルーズですから、たかだか20分のことなんですけど、海のかおりを充分に楽しめるかなってつもりでした。一応、確かに海のかおりいっぱいだったんですよ。でもね、丁度わたしたちの位置した一角を取り囲むように、若い女性の集団。大学生ぐらいかな?これがしゃべるにもしゃべるにも、船内アナウンスも全然聞こえないって具合なんだから、ったく困ったものです。

 スーパービュー踊り子4号。お昼を少し過ぎて下田を離れました。
 温泉も満喫できたし、また行きたいな。

横浜下車…

 

 下田には「寝姿山(ねすがたやま)」という、いっぷう変わった名前の山があります。どうやら下から見た感じが、「寝ている姿」に見えることから、付いた名前のようです。

 伊豆急下田駅前から徒歩数分のところに、その山へのロープウェイの乗り場があります。そして好奇心から、それに乗ったってことは言うまでもないことかな。
標高差にして200メートル、時間にして5分ぐらいの乗車時間だったろうか。乗り場にはズラリと並んだお客さん、乗ってみれば超満員。そんなロープウェイの中で……。

「寝姿山って何が寝ているのだろうね」とわたし。
「そうね、人?それもお釈迦様とか」と妻。

"寝姿山はご婦人の寝ている姿になぞらえて命名されたと……"と車内アナウンスの声。
「へえ、そうなんだ」とわたし。
"……鼻の部分と……胸にあたる部分と……"と観光アナウンス。
「ということは、あおむけってことになるか」とわたし。
「うんうん」と妻。
みたいな会話をしながらロープウェイは終点に着いたのでした。

 この日、とてもいいお天気で、11月も下旬、いくら温暖な土地でもやはり肌寒いに違いないと、それなりにしっかりジャンバーなんか着込んで乗り込んできたのだけど、予想に反してうっすらと汗ばんでしまうくらいの暖かさでした。
寝姿山の頂からの見晴らしは、下田湾が一望できて、なかなかのものでしたよ。

「なあ、ここってもしかして寝姿山でも、胸のところにいるのかな」とわたし。
「ええ、そうなるわね」と妻
「ということは、つまりここはオッパイのさきっぽ!」とにやけるわたし。
…にしても、あおむけで、これだけってことは、このご婦人、なかなかのナイスバディーってことで、ったく何想像してんだかあ。(笑)

 ナイスバディーのおみやげは、地元ミカンでつくったっていうミカンのワインです。まだ飲んでみていないんですけどね、山頂での試飲酒は、ちょっと甘くて、ほんのり酸味がきいていて、割とおいしかったですよ。1本1,000円で1本買ってきました。気持ちは2、3本と思っていたんだけど、誰が持つんだって、もうひとつの心の声がして、なくなく断念しちゃいました。(苦笑)

 スーパービューおどりこ4号。ほとんど寝てました。さすが寝姿山に登っただけのことはある。(ほんとかい?)
列車を降りてみれば横浜。
ふつう列車に乗り換えて石川町。
元町を歩いてみたかった。港の見える丘公園とか、山下公園とかに行ってみたかった。

 いつか愛川欣也のやっている"町"を紹介する番組を見ました。というほどまじめに見たわけじゃないけど、それなりに記憶に残っていて、妻が行ってみようかってわたしを誘うわけで、そういえばって思ったのですよ。
その番組で、元町を紹介していたことは憶えています。けど、どこにどんなお店があるって肝心要のところを全然憶えていませんでした。よく考えてみると、番組の始めの数分しか見ていなかったのだ。しかし、あの数分だけでも10軒ぐらいの情報はあったはずなのにね。(はいはい)

 元町。
なんというか、とってもファッションの町なんだね。
婦人服とか、婦人向けのかばんのお店とか、輸入雑貨とか、アクセサリーのお店とかが次から次。元町通りに入って、海沿いの山下公園まで一度通りぬけてみて、もう一度逆行してみたのですけど、全然ないのですよお〜、パソコン屋とかが……。しょうがないですね。ホント、お門違いってことだね。
ちょっとしょげてるわたしには申し訳ないって感じで、妻はしっかりウインドーショッピング楽しんでたようです。

 ファッショナブルなお店の建ち並ぶ中で、唯一興味を引いたお店がひとつありまして、「シルバー大野」。銀の専門店なんですね。銀のアクセサリー、銀のスプーンやフォーク、銀の燭台、銀の皿、エトセトラ…、店内ズラリと銀一色なんです。
銀製品って、すごく高いって思っていました。
実際、とても手の出せない値段の物もありました。が、そんな中で、スプーンとかフォークって、1,000円台で、買えるんですね。意外って……ねえ、そう思いません?
妻と一緒に店内をぐるり。とうとう見つけました。銀のワイングラス。
ガラスじゃないのにグラスってのもあれだけど、とにかくワイングラスです。シルバー大野のオリジナルって書いてありました。これで、ミカンのワインを飲むと、どんな味がするのだろう……。
ペアで4,800円。果たして高いか!安いか?それが問題だ。

 これで結婚15年目の旅行のお話は終わりです。