2005年のエッセイ

越後湯沢 2005年 1月 9日
越後湯沢 2005年 3月13日
長崎 2005年 5月 3日
熱海 2005年 8月13日
研究発表 2005年 9月17日
Guam 2005年12月29日


越後湯沢 2005年 1月 9日

 1月9日の朝、時間は 6時。外はまだ夜の暗闇。妻の運転するクルマは、降り出したばかりの雪道を静かに走っていきます。目的地はJRの駅。そこから新潟県は、湯沢に行く電車に乗るのだ!

 今年の冬は、雪が遅かった。ちょっとややこしいのだが、つい10日前までは暦では去年なのだが、11月、12月は、冬の季節感として、今シーズンと丸め込むことにします。
かつて11月には、初霜、初氷、初雪と、冬の到来を示す三大イベントがあったものだが、ここ20年、どんどん秋が長くなっていき、冬の到来を示す三大イベントはほとんど12月に来るようになってきています。そして、今年、とうとうクリスマス直前の23日まで初雪が降らないという事態にまでなってしまいました。時期は、クリスマスイブイブ。それでも初雪はやはり初雪。ちょっと降ってみせただけの朝の雪だったのでした。
それからも、ちらほら降っては消え、降っては消えを繰り返して、新年明けて一週間を過ぎても、まともに積もる気配さえありません。ここ20年近くにもなるだろうか。かつてわたしの経験した、すべてのものが凍り付いてしまう強力な冷凍庫のような冷え方も、圧倒的なメートル単位の雪に埋もれてしまうようなパワフルな積雪もなくなってしまいました。もう、わたしの住む地域に、根雪という言葉はないのかもしれない。
クルマを駐車場に停めて、JRの駅へと向かいます。相変わらず、降ってみせただけの雪がチラチラ……。

 暗かった窓の外も徐々に朝を迎え、だんだんと明るい景色になってきました。窓の外は一面の雪世界になってきています。とはいっても、このあたりも、冬のパワーの衰えをはっきりと見て取れるようです。
社会科の教科書には豪雪地帯として、新潟県十日町の独特の建築様式が写真付きで載っていたものですが、線路を走る電車の窓からは、それを裏付けるべき豪雪はまったくありません。積もった雪のところどころに地面の見えるところがあるなんて… ですから。はたして湯沢はどうなんだろうか……。

 8:45、JR越後湯沢駅。改札口の外で、その人、今日一日、わたしを見てくれるその人。ファクトリースマイルの大谷コーチの姿がありました。

 駅舎の長い通路を抜ければ、そこは雪国だった。
全身スキーウェアに身を包み、肩にスキーをかつぎ、もう片方にはスキーブーツバッグを下げてのわたしと妻、そして子供。どこからどう見ても、これからスキーに行くぞ!の家族連れに見えたことでしょう。
駅舎前の歩道の横に停めてあるクルマはどれも雪と氷に覆われています。これぞ、雪国の風景!そして、吹き付けてくる風はかなり寒い。それまでの不安は、きれいさっぱりどこかにぶっ飛んでしまいました 笑。
そしてクルマを下りてみれば、中里スキー場は、雪まじりの寒風の中。ここには、まったくの“冬”がありました。

冬だ、中里だ、ファクスマスキーに行こう!
 12月 5日の夜、そう決めてメールを送りました。
そして翌日、返事がきました。
「よし!今シーズンは、 1月 9日で決まりだ!」

 このままではまずい! 絶対にまともにできない。春から夏、夏から秋、そして秋から冬。家と職場を往復するだけの毎日。家では机に向かってパソコンをするばかり。職場では、毎度おきまりの仕事をこなしているだけの単調な毎日。わたしの体は、なまりになまっている。しかも最近姿勢が悪い。背中丸めてパソコンを打っている。疲れてきてもやることは終わらないから、そのうちどんどん傾いたかっこうでことにもなってきている。そこにもってきて、去年、腰椎椎間板ヘルニアをやってしまった。
まずは、『足腰から』…と、昨年11月の神戸の旅での教訓を意味あるものにしようと、昼休みにエアロバイクをこぐことから始めてみました。
12月 7日。エアロバイク開始 6分。もうばててきた。10分。もうあかん。こんなんで大丈夫だろうか…。それでも、どうにか週4〜5日の15分の自転車こぎは継続できました。でも、プラスのメニューはだめでした。こんな状態で、中里スキー場に立ってしまったのでした 苦笑い。

ゲレンデはパウダースノー。スキーヤーなら、一度は経験してみたいあこがれの雪。風に舞い上がる粉雪。滑り降りた後に残るジェット気流のような雪の流れ。そんなベストコンディション。こんな雪をもしかして30年近くも経験していないかもしれない。
ただ、降り続ける粉雪と斜面に吹き付ける北風。真冬なんだから当たり前といえば当たり前なんだけど、すっかりやわな冬になまらされたわたしには、厳しくてなつかしいコンディションでした。
あたまにはスキーキャップをすっぽりとかぶっていました。目にはゴーグル、首には、ネックウォーマーといきたいところだが、両方とも忘れてきてしまった。そこで、ゴーグルは現地調達とし、首周りは、ウェアのストラップの締め具合で乗り切るしかありませんでした。
かっこは決まった。これで滑りも決まれば言うことなし!のはずだったが、体力なしの、姿勢もいまいち。ついでに運動の勘どころも当てにならないのだから、気持ちだけ一人前!なわけです。

 去年の 1月 10日からちょうど 1年。あまり変わっていないと思えてしようがありません。しかし、これにめげるわけにはいきません。さいわいにして、斜面のいくらかを覚えています。次にくるカーブは、これくらい……、この急なダウンヒルは怖がることはない。ここは左に流れやすいぞ……。
コンディションは、雪が降り、風が粉雪を巻き上げています。去年とは比較にならないほど悪い。
向かい風、 前を滑る大谷コーチの声が聞こえない。いや、わずかに風の轟音のなかに聞こえます。大丈夫だ。
わたしの右足はどこにある。体重が右に移らない!バランスが見えない。斜面が変わった!まずい!左足でこらえろ!取られた!
あっという間に転倒。斜面をずるずる落ちていきます。

 大谷コーチには、降りしきる雪の中、ただでさえ視界がきかないというのに、とんでもないおっさんに当たってしまったものです。にも関わらず、ていねいに教えてくださいます。ありがたい限りです。ところが、すなおに聞けばいいのに、あれこれ理屈を並べ立ててしまうわたし。人は年を取るほどに大きく立派になっていくという、まことしやかな幻影に育つはプライドだけということです。へ理屈を並べて、自己弁護に励むはプライドだけ育てた大人の特権なのか…。苦笑い。それでも、ていねいに教えてくださいます。ありがたい限りです。

 お昼。去年と同じ食堂。
去年も食べた、みそチャーシューめん。でも、今年は大盛り。うまかったぁ〜。 さぁて、午後も 1時15分。そろそろ行くか!と、席を立ちます。

 午前を終わってみると、かぶっていたスキーキャップは、吹き付けられた雪が層になってくっついていました。ゴーグルを外してみると、顔の下半分が妙に堅いことに気がつきます。なんと頬から顎にかけて氷の薄膜に覆われていたのでした。もしかして、口のところを除いて、後は白塗り状態だったのでは?と思うと思わず笑いがもれます。
午後も相変わらず雪と風。また、同じゲレンデが待っています。でも、何かが得られそうで、なんとなくうれしい。

 午後は疲れた足のままでした。説明させていただけるとしたら、大腿四頭筋の直筋と外側広筋に目立った疲労感があります。力が入りきらない。コントロールが効かない。その割には、ときおりいい滑りができる瞬間があるような気がしました。

 最終的に分かったことは、集中しないってことかもしれません。集中する体は弱い。一点に集中することは、それ以外のどこからの外力にももろいってことです。
大谷コーチの声が聞こえ、場内放送の音楽が遠くに聞こえて、ずっと下のリフトの乗り場からチャイムが聞こえてきます。それ以外の音、誰かが滑っていく滑走音、子供の声や……、そしてわたし自信が出している音も。
風が変わった。唇に溶けた雪のしずくが流れてきた。右足と左足が、次々とやってくる雪面の凹凸にそれぞれ震える。スキーのトップが見える。テールも見える。左右に重心が揺れる。リズムが決まる。膝が笑っている。『スタミナ切れか』などと思っているから、瞬間すべての情景が失われる。

 一日が終わりました。
 すべりました。去年よりずっといい滑りができたような気がします。これはわたしの特質かもしれません。いつも、良くなったと……。単に記憶力が悪いってことなのにね 笑。


越後湯沢 2005年 3月13日

AM 6:45。列車は来ました。送ってくれた妻と別れて指定車両に乗り込みます。席は5B。座席に坐ると、まもなく列車は動き出しました。手提げ袋からあんパンを取り出し、朝食を始めます。
目的地は、越後湯沢は中里スキー場。1月に続いて2度目のスキー指導を受けることにしたのです。今回の指導者は、ファクトリースマイルの加藤さんとのことでした。

 いつのまにか眠り込んでいました。ここはどこだろうと思う……、車内放送はないし、列車は順調に走っているので、とりあえず降りる準備は必要なさそうです。どちらにせよ、目的地は終点なのだから……。そう思い、足伸ばしついでに席を立ち、トイレに向かうことにしました。号車は 3号車。トイレの場所は2ヶ月前に乗った同じ車両。自動扉をくぐって客室からデッキに出ます。車両の連結部分を過ぎて、 2号車へ。そして、当たりをつけて手を伸ばしてみると、うまく扉のハンドルに届いたことが分かります。グイッと引いてみれば、引き戸は重みを持ってスーッと開きました。個室に人の気配はなさそうです。空室と判断し、中に入ってドアを締めて鍵を掛けます。
いつものことですが、トイレというのは、目の不自由なわたしにとって、実にバリアこの上ありません。杖先で便器を確認する手続きから……。
 便器はどこにあるのか?洋式なのか?それとも和式なのか?向きは?洋式であれば、フタは開いているのか、閉じているのか?開いているなら、便座は?……いつか、フタが開いていたので、あると思って座ったら、便座ごと上がっていて、便器に直接座ったなんてこともありましたからねぇ 笑。笑い事にしているけど、たぶん、その場合、立ちションしていった可能性があるので、飛び散っていたはず……。洋式は、便座はもちろんのこと、フタもきちんと閉じるというエチケットぐらい身につけてもらいたいものだと思うのですよねぇ。
 次にトイレットペーパーはどこにあるのか?ホルダーに神はあるのか?そして最後。これがいちばん困ること。どうやって流すのか?レバーを下げるのか?紐を引くのか?ボタンを押すのか?そしてそもそも、どこにあるのか?
今回は、記憶にあったので、それほど時間をかけずに3号車に戻ることができました。

 列車はとうとう越後湯沢に着きました。
最後に降りようと、待つことしばし。白杖でホームとの隙間を確認し、一歩踏み出してみれば、待っていたのは、“寒い”以外の形容詞を思いつけないようなつめたぁい空気でした。

 予報では3月13日の新潟地方は、真冬さながらの厳しい天気になると言っていました。また、1月のときのような”真冬”になるのかもしれないと予感していましたが、そこはそこ、一度経験したからどうにかなるさと…… 笑。

 加藤さんは、列車を降りた目の前に来てくださいました。そこから、一緒に改札口を通って……。

 「そこでジャンプして」とスキーを履いてスタンバッてるわたしに加藤さん。
「こうですか」と、ホイッとジャンプしてみる。体重にスキーとブーツの重さが加わって、ついでにウェアのかさばり感も加わり、思ったより、全然上がらず、ドスンと着地。思わず、こんなに跳べなかった!?とちょっとショック。
「じゃあ、今度はジャンプして向きを変えて」と、加藤さん。
「んじゃあ」と、今度は精一杯の力を込めて跳び上がり、どうにか180度のターンをして着地をしてみます。
「いいよ。リフトへ行こう」と、加藤さん。
「こんなんでいいんですか?」とわたし。
「視覚障害者はね……」と、視覚障害のスキーについて教えてくださいます。
なるほどと、思う。見る人が見れば、ちゃんと分かるのだなと思ったってことです。

 中里スキー場は、予報どおり氷点下の一日でした。けど、予報に反して、いい天気でした。グラサン、ゴーグルかけてないとまぶしくて目を開けてられないってほどのピッカピッカのいい天気になってしまいました。わたしの晴れパワーの勝利!と、思わず、にやついてしまいます。
天気のことはさておき、今回の目的も我流スキーをどうにかまともなものにしたいだったので、「おねがいします」と、歩き出します。

 午前、まだどうしても力に頼ったスキーをしてしまう癖がところどころに顔を出します。加藤さんの、“ファクスマスキー”が、“自然身体論”がもうあと一歩なんだけどなぁ……。

 そして午後。ほどよく疲れてきていることが一本目の滑りで、明らかになります。それでも不思議となんとかなる。いけてるって感じがしてくるからおもしろいものです。
「肘と手首をこうしてみよう」と、加藤さんの指導。
「こうですか?」
「そう。じゃあ行こうか」
「はい」

スーッ、スーッ、スーッ
「いいね」
「いいですね」
スーッ スーッ スーッ スーッ
「いいねぇぇ!」
ニコニコ
ホントになんのよどみもなく、下まで降りました。『できた!』と、うれしくなりました。
その後も、その後も、その後も、……。決まった!
やったぁ!
とうとうできた!
右のターンも左のターンも、急斜面も緩斜面も、前を行く加藤さんになめらかに着いていけてる。しかも疲れない。
こりゃどうしたことか?今までのわたしのスキーはもうどこにも出てこない。

 笑顔の午後 3時。
やったなぁの感動がそこにありました。
加藤さんに感謝。ファクスマのみなさん、ありがとう。
それから 2週間。
わたしは、仕事に、患者さんのリハビリに、加藤さんから教わった、自然身体論を活かそうと、ふと体全体のバランスを見、一つ一つの関節を見てとやっています。


長崎 2005年 5月 3日

 「長崎に行かないか」
それは 4月13日の夜、わたしからかけた言葉だった。

 前回、1998年5月2日は、長崎空港から船で…。初めての長崎。上の子は小学校中学年、下の子は五歳ということで、100%こどもサービス旅行でした。今回は、下の子も大きくなり、あの頃の上の子と同じ経験ができるかなと、妻の希望もまるめてのことにしたのです。

三日の朝、 博多駅に入線してきたかもめ9号。わたしたち家族は、その 3番目の車両に乗りました。
9:00、列車は長崎に向かって動き出しました。

 妻と子供は通路をはさんで向こう側。わたしは車販で買い求めたウィスキーの水割りを口に運びながら、一人ぼんやり。そのうち、ほろほろと酔いが回ってきます。『朝から酔っぱらってるなんて、しょうがないおっさんだな』と思う。『こういうのもありだよな』とも思って心の中で一人会話を楽しんでいると、左にいた学生ふうの若い男性が、一駅を乗り過ごして、降りていきました。
そして、佐賀を過ぎたあたりだっただろうか?「ここは空いていますか」と、女性の声。声からすると、それほど若い女性ではないなと思いながら、「ええ」と答えます。「ああ、でも、少し前までいましたけど、さっきの駅で降りたのかも…」とも答える。もし、あの若い男性が戻ってくるかもしれないとも思いながらも、ほとんどそれはないなと確信に似たものもあったのでした。
「来たらあければいいわね」と、その女性は言って、空いている窓側の席に座りました。
そのとき、ふと、『…あの男性は、荷物らしい荷物は持っていなかったということは長距離脚ではないかもしれない。 …始発駅を出るときいなかったということは、どういうことなんだろう? そして一駅を過ぎて車掌が検札にくる直前に足し去っていったということは……、しかも車掌とは反対の方向、後ろに向かって…。駅で降りるには、タイミングとしてはちょっと早かった……。 …がしかし、この女性も、空いているかとたずねてくるのもへんといえば、へんではないのか?ここは指定車両。指定席券を持っていれば、誰に遠慮することなく、それが示す座席に坐ればいい…』
ふと、ウィスキーを口に流し込みながら考えを巡らせていると、「指定席で空いているところがあれば坐っていいと言われたので…」と、一瞬の沈黙を破るように窓側からの女性の声。
『あっそうなの』と、納得した気になって、「そうですか」と受け流します。

「どちらへ行かれるのですか?」
「どちらからおいでですか?」
これは、旅先で交わすおきまりの挨拶。今回も、その挨拶が交わされました。
そこからは、長崎に着くまでの時間にしておよそ90分ほど、暇をもてあますだろうとの予測に反して、楽しいおしゃべりの時間があったのでした。
話題の中心は、なんと“華道”のことでした。その女性は、草月流を習っていて、長崎に華道展を見に行くグループの一人なのだと言う。わたしは、見えないながらも職場のクラブで池坊の手ほどきを受けているという、意外な接点で話が盛り上がったのでした。
だから旅っておもしろいよね。

 今回長崎で最初に行った場所は、原爆祈念公園でした。
1945年 8月 9日。地上を襲った、すさまじい衝撃波、熱線、爆風、放射線。それは破壊と火炎、消滅の地獄だったと、ネットで調べれば、あるいは関連書籍をひもとけば、分かります。その詳細については、そちらの方にてよろしくお願いしたいと思います。

 路面電車を降りたわたしたち家族は、7年前に来たときと同じところを歩いて、階段を上がり、小道を歩いてモニュメントの横を通り過ぎ、平和の泉のところまできました。前回は、帰りの時刻が迫っていたため、ゆっくりできず、写真を撮るために立ち止まる以外、ほとんど通り過ぎただけの場所。今回は、時間制限なし!です。
そこに来るまでの小道の横にも、ソ連や、チェコスロバキアもあったかな(?)から贈られたモニュメントがありました…、ありましたは、そう聞いただけの事実なのでして、それがどんな“像”なのかは、分かっていません。
最近、博物館などで、視覚障害者のために点字の案内板が用意されているところがあります。いつ誰がどこで作ったとか……、でも足りないのです。
それは、手で触ることのできない、たとえば、大きな像だとか、大きくなくても触ったら形が崩れてしまうようなものとか、噴水の吹き出したときの形とかのような触りようのないものとか、… のミニチュアを置いて、それを触って、全体像をとらえられるようになっていたらなぁということなのです。
この公園に点字の表記版があったのか、それは分かりません。妻がなにも言わなかったのだから、たぶん、そのようなものはなかったのかなと思います。

 わたしはこどもの頃からSFが好きでした。本が読めなくなって、寂しい15年ほどがありましたが、ここ数年、OCRがよくなり、本をスキャナに通すだけで音声で読めるようになりました。数えてみますと、OCR書籍のフォルダーには、SFだけで100冊近いテキストができあがっていました。ほんとありがたいかぎりです。
つい最近も、30年前後前に書かれた近未来を扱ったSFストーリーを読みました。そこに登場する時代背景が、1990年とか、2000年なのですが、もちろん、もうその“時間”は、未来ではなく過去となるわけです。
それにしても、到達した未来のなんとお粗末なことか…人は、未だ地球にしがみつき、経済にあえぎ、日々に追われ、争いを繰り返し、殺戮を応酬しあい、… そんなエネルギーの無駄遣いをもっとましな方向に向けてれば、今頃は、とうに宇宙に進出しているに違いなく… こんな悲惨な思い出の公園も作らずに済んだのではないかと思いながら……。

 そういえば、SFストーリーによくある設定に第三次世界大戦があります。当然ながら、進んだ戦争兵器によって、世界中の大壊滅を経て、悲惨な未来が舞台というものもあるし、そこから学んだ進歩した人類によって、奇跡の台復興というシチュエーションもあります。しかし、第三次世界大戦など、あってはならないのです。戦後など、きっとない。首の取れた天使像ぐらいでは済まないのだから。
その後行った、浦上天主堂に、原爆で取れた、首のない像が置いてありました。
話が前後しますが、平和祈念公園… 平和祈念の祈念は、祈る・念じるの祈念で、なになにを記念しての、記す・念じるの記念ではないので… って、わたしもそこに行って、妻にそう言われるまで、知らなかったのですから… 笑。

 ちょうど時間もお昼近くになって、少々お腹がすいてきました。
女性の声で、「かくにまん いかがですか」と聞こえてきます。果たして“かくにまん”とはなんなのか?食べてみたいという欲求が頭をもたげてくるわけで、妻と子供に「食べよう」とプッシュしたことは言うまでもありません。

「からしはおつけしますか?」
「えっ?」一瞬頭が混乱し、『からしをつけるとは?いったい…』、「食べたことがないので、からしを付けるとは?」と、逆に質問を返してしまいました。
「では、おつけせずにおきますね」
「ええ、そうしてください」
手に渡されたものは、熱々のふかしまんだった。口に運んでみると、熱々のまんじゅう生地に、これまた熱々の角切りの肉が挟まっていて、甘辛の味わいに「うん、こりゃうまい」とあっというまに食べてしまいました。
そして当然の成り行きでしょう、アイスクリーンも「ください」となったのでした 笑。

 この日、5月の連休にしては、暑かったのです。家族全員、それまで着ていた上着を脱ぎ、わたしの持つカバンに入れることになっていたのですから……。そんな暑い中、アイスクリーンはとてもおいしかった。ソフトクリームコーンにかき氷を乗せたといった感じで、サクサクザクザクとあっという間に食べてひとときの冷涼感を楽しんだのでした。

 昨年の冬、さだまさしさん原作の映画 解夏(げげ)を妻と見ました。
ベーチェットという、目の病気におかされた男性と、彼を支えようとする女性のストーリーです。徐々に見えなくなっていくことへの不安、恐怖。その彼がよりどころにした故郷の長崎の街の風景が映画のいたるところに登場しています。その場所を一カ所でもいいから、見てみたい。それが、今回の旅行の目的の一つでもあったのです。

 原爆資料館からの帰り道、遅めのお昼を済ませて、とりあえずホテルにチェックインしようかと、坂道を下って歩き始めます。もよりの路面電車の電停は道路を挟んでほんの少し先、横断歩道の信号待ちをしているとき、やってきた電車は、通り過ぎて行ってしまいました。
別に急ぐ理由もないし、隣の電停まで歩こうか… と、食後の散歩ついでに歩道を歩き出します。行き交うクルマはありますが、歩道にすれ違う人がまったくいません。そんなのんびりしたなか、ふと歩みを止める妻。

「きれぇい〜。」と、ショーウィンドーを覗き込む妻と子供。
「…?」
「ステンドグラスよ」
「へぇ〜、入ってみようか」

 そのお店には、ステンドグラスで装飾されたランプが多数ありました。他にもあったようですが、聞くのを忘れました。
ショーケースの上に置かれている、ちょっと大型の電気スタンド。白熱灯の灯りがステンドグラスをきれいに照らしています。お値段、1万なにがし?のとか、3万なにがしのも……もあり、それはそれはきれいな光のオブジェでした。
うっとりと見入っている妻。
そのランプの台になっているショーケースの中には、手のひらサイズのステンドグラスで装飾された夜間灯がありました。お値段3千円ちょっと。
うん、これなら、持っていくこともできるし、いい。青い蝶々がらと、緑の蝶々がらがあるというので、わたしは迷わず、緑がいいと言ってしまいました。

 わたしの書いている文書。100%想像の産物といっていいかもしれません。実際に見えるものなどないのですから、形も色も、「…こうだよ」と言われて、「ああ、なるほど…」と、頭の中に想像しているのです。「緑の蝶々」だと言われて、『緑の蝶』が思い浮かぶのです。形の記憶、色の記憶、過去に見えていたころにインプットされた様々な記憶が、総動員されて、いかにも目に見えているかのような具体的なイメージが、眼前に浮かび上がる。わたしは、それを100%よりどころにして、「こうだ」と、判断をくだしている。実は、とんでもないボケをかましているのかもしれないのだが… ね。

 ステンドグラスをあしらった夜間灯を片手にぶら下げて、ようやくホテルに着きました。どこをどう歩いて、どこをどう電車で走ってきたのだろうか…?地理感というのは、目の不自由になったわたしにとって、もっとも理解しがたいものの一つとなりました。地図を見れば一目瞭然なのだが、それができない。たとえば京都のような理路整然とした街の作りであれば、言葉だけでも見当はつきやすい。ところが、長崎はどうも、そうではないらしい。しかも、高低差もあって、三次元空間に地図のイメージを投影しなくては、理解が難しいときたものです。せめて二次元の図でいいので、手で触って分かる、触図というものを感嘆にこしらえることはできないものだろうか…。

 ホテルにチェックインしても時間は、まだ午後3時を過ぎたばかり。ここでぼんやりしててもしょうがありません。子供は、ここぞとばかりに持ってきたPSPを始めています。
わたしは、もう一度、歩きたくてしょうがありません。実際に歩くことでしか、地理感は得られないのです。右に曲がった、左にロールした、どれだけ歩いた、上った、下った…。それを積み重ねていくことで、徐々に“地理感”ができあがっていくのですから。
そういうことでは、一度限りの街は、実感の伴わないばらばらの記憶の集合体。

 子供はホテルの部屋で留守番をしてくれるというので、わたしは妻に頼んでもう一度、出歩いてもらうことにしました。
ちなみに、ホテルは、中華街前の長崎東映ホテル。このホテル前から中華街あたりにかけては、何度も歩いたので、かなり地理感ができています。がしかし、ここから電車に乗って後は、どこをどう行ったのか?さっぱりなのでした 笑。

 さて、どういう電停で降りたのだったかな?地図を片手の妻と、そのうち平地からだんだんと登り坂になっていく細い道を歩いて、ここがその場所だというお寺に着きました。
興福寺というらしい。

「階段よ」と、妻が言う。
白杖の先で、段差を確認し、一歩上がる。もう一歩足を上げ、さらにもう一歩。あれ?
あっと思った瞬間、杖もろともに前のめりに倒れてしまいました。
しまった!うっかりしていた。最初の一歩、次の一歩で、階段の段差、段幅が一定であるかと思いこんでしまったのです。この手の神社仏閣、歴史の中で作られた階段は、必ずしも段差段幅が一定であるとは限らないのです。いや、一定であるはずがないとしなくてはならないのです。
転がっているわたしの前方、段のずっと上のほう、それに、右やや前方には先をゆく人が一人か二人、後ろのほうにはすれ違った人の気配があります。
あちゃぁ〜 見られてしまった〜
立ち上がりなおしたわたしの横で、わたしより、妻のほうがずっと、あせっていることが分かりますが、苦笑いする以外、返す言葉がありません。これはいい思い出になるなって、今でも思っていることが、不思議といえば、不思議です 笑。

 あのサルスベリの木はどこにあるだろう。
映画・解夏(げげ)で何度か出てきた、あのサルスベリの花が、どうやらこのお寺の境内にあるらしいのです。今は、その花の時期ではないから、その花を見ることはできないでしょう。が、せめて木だけでも見られたらなぁ〜 と、境内に入っていってみます。しかし、見つかりません。行ったり来たり、歩き回ってみますが、どうにもそれらしき木が見つかりません。そんなに広い境内でもないのにです。
しょうがなく社殿を見たりしているうちに、だんだんつまらなくなってきます。「行こうか…」と、元来た方角に向かって歩き始めます。もう、そこが出口だというところで、… あったんですよ。たぶん、そのサルスベリの木がね。それこそ、入ってすぐのとこ、うっかり見逃してというかな、まさかこんなところにあるなんて、… ですよ。
木は枝打ちされて、もちろん花もないのでして、映画で見た樹木とは、似ても似つかない姿になってしまっていて、「まあ、しょうがないね」で、さらりと出てきたというわけでした。
サルスベリなだけに、わたしもこけたってか。笑い。

「じゃあ行くか」
こうして、わたしたち家族は、 5月 4日をスタートしました。
長崎東映ホテルから向かったのは、稲佐山ロープウェイ。
10時30分。山の頂上はきれいに晴れていました。ほどよく暖かい風、鳥のさえずりも聞こえてきます。まだ時間が早いからなのか、観光客はまばらなようです。展望台に着いてみると、さて、どっちに行ったものかな…。右に行けば、反時計回りに回りながらの下り道。反対に行けば時計回りに上りのスロープ。まっすぐ行けばホールに入ってエレベータということのようです。
 とりあえず右へ行こうかと、ゆったりとした下り坂。ほどなく、展望台の横を回り込んで反対側にさしかかるあたりで、日陰に入りました。それまでの直射日光から遮られたそこは、なんともさわやかな居心地のいい場所です。そして、野鳥のさえずりの中に、「ホーホケキョ」。
これは撮るっきゃないでしょう。
ポケットから取り出したデジカメを動画モードに変えてこの辺りかな?と、当たりを付けて撮影を開始してみます。
『うぅん、いい感じだ』

 昨日、興福寺からの帰り道、中町通り… と書くのかな?なかまちどおりで変換したら、こう出たけど… その通りを横切るところでなんともいい感じのBGMが流れていました。もしかしたら、その通りを歩いてみたらよかったのかなと思いながらも、そこはそこ、さっさと“眼鏡橋”なる橋を観るために、横切ってしまいました。

 思い出は、歩いた感触、暖かさや寒さ、音やにおいそしてそこで出会った人から受けた印象などをどう感じていたかで、強いインパクトがあればあるほど、いつまでも残っているものです。いつか、東京に行ったとき、帰りの飛行機に乗り遅れたことがありました。いつか函館の五稜郭で、若い男女になんくせつけられたことがありました。いつか京都の清水寺で、大混雑に巻き込まれて、とうとう清水寺にたどり着けなかったことがありました。……
何事もなく、順調まんまで帰ってきた旅行というのは、案外、思い出がぼやけていたりするもので、そこそこな目に遭った旅に限って、きれい鮮明に残っていたりするのは、人の記憶の不思議なとこだったりします 笑。何が影響しているからなんだろうね。そういうことからすると、今回の旅は、どうなんだろうね。

 展望台の屋上の展望スペースに登ってみると、ほとんど誰もいなかった下とはがらりと変わって、多くの人がいて、ざわざわしてて、しかも日差しが割と強くて、落ち着くというには、無理があるかな〜 でした。 ということで、そこはさっさと降りてきてしまって、またさっきのウグイスの声を録った、静かで落ち着いたとこに戻ってきてしまいました。今度は自販機で買ってきたお茶を飲みながら、野鳥の声をぼんやりと…… 笑。  

 山を下りてきたわたしたち家族、今度は、海へ、観光船へと向かうことにしました。のった船は、マルベージャ。変な名前だなと思っていたものですが、じきにスペイン語で "美しい海" と分かり、なるほどでした。
観光船は他にもあり、船上バーベキューをやっている船。高速船でかなり遠く?だろう、軍艦島まで行ってくるという船。船上でマジックショーをやっている船もありました。わたしたちは、そんな中で、高速船でなく、しかも船上で、バーベキューもマジックショーもなんにもやっていない、ただの観光船を選びました。
だって、お天気は上々。海は穏やか。初めて乗る長崎の海。
だのに、なんで、バーベキューなわけ?どうしてマジックショーってか?ゆったりと海の気を、長崎の臨場感をじっくりと味会わせてもらおうじゃないのぉ〜 というわけです。

 そんなわけで、船に乗ってすぐ、「ここがいい」と、船尾デッキのベンチに腰をかけくつろぐことにしたのです。ほんとは、こちらが船首かなとあんまり、船の外観もたしかめずに坐ったんだけどね、動き出してすぐ、「あれ?こっちが船尾だった」ってね。笑い。

 船上に流れる観光アナウンスも、適度に押さえがきいていて、聞いててよかった。
ふと耳をすますと、ドドドドという船のエンジン音に、海を切り裂いて走る波の音がちょこっとあって、でも、全然無理なく、長崎の街からの音が聞こえて、カンカンカンカンと聞こえてくれば、『ああ、造船ドックで、誰かが鉄板を叩いているんだな』と思えたし、ふと日差しが遮られてつかのま涼しくなれば、『ああ、今、建造中の女神橋の下をくぐったな』と分かったし、よかったなってね。

 最近、わたしは、観光船に乗ったら、すぐビールになってしまっています。去年の神戸でもビール飲んでたし、今回もね。笑い。
でも、ほんとはビールはそれほど好きではないのです。カクテルを、そうだな、ジンライムでも飲みながらってことだったら、よかっただろうと思います。

 そうして海上クルージングを楽しんだわたしたち、次の目的地へと……
そういえば、船に乗る前、「佐世保バーガーってあるわ」と妻。
「佐世保?バーガー?何それ?聞いたことないけど、バーガーキングみたいのならいいけど、おもちゃみたいなのだったら……」と、わたし。

 長崎の海を堪能したわたしたち家族。時間は昼下がり。出島に向かってみました。

 出島。島というだけあって、いかにも海の中に浮かんでいるかと思いきや、いつ出島に入って、いつ出島から出てきたのか? それこそ、家族に教えてもらわなければ、全然 まったく さっぱり分からなかったのです。というくらい、どこが島だってか!?だったのでした。笑い。

 グラバー苑を降りてきてみれば、そこはおみやげ屋。
一軒、もう一軒、もう一軒と、おみやげ屋の前を通り過ぎて…

 妻が色めきだします。
「ねえ、入ってもいい?」
「ああ、いいよ、もちろんさ」

 そのお店の名前は、あまやどり。
さだまさしさんの、おみやげ専門店でした。さだファンの妻にとって、とうてい見過ごすことのできないお店です。

「かぁぅわぅいぃ」
「へぇ〜」
実に楽しそうです。

 お店には、女性店員が二人。一人は若い感じで、ずっとレジにいます。抑えめの声がチラッチラッと聞こえてはきたけど、何を言っているのかは分からなかったし、聞く気もなかったので、……。そしてもう一人は、わたしより、たぶん、もう少し年齢がいっているのかな?明るいおしゃべり好きなって感じの…、だって、じきにレジから出てきて「さださんのファンですか?」って聞いてきたし、見ている商品の説明を始めたし、そしてとうとう、「映画・解夏のロケ地が近くにあって…」と、妻に指で指し示して説明をしてくれて、おまけに「ここよ」と、周りの地図まで書いてくれて… 笑い。
あっそうそう、店内には、もちろんだけど、さださんの曲が次から次へと流れててね。(にこにこ)

 お店を出てすぐ。大浦天主堂を右に見続けながら、時計回りに、ここかな、ここかなと歩いていくわたしたち。そして、とてもクルマの入れそうもない細い道へと歩を進めます。まもなく、二人で歩くのさえやっとといったふうの細い登り道となりました。
「ここよ、ここだわ。もうすぐ隆之の家の前のとこね」
これは、映画・解夏を見た人でないと、話が分かりませんね。
主人公、隆之は視力を失う眼疾、ベーチェットに侵され、ふるさとの長崎に戻りました。そしてそこで、興福寺の和尚に出会い、解夏という言葉を教えられるのです。
ストーリーは、彼を心配して追ってきた恋人、陽子と、彼の母、友人たちとおりなす心の物語。視力を失い、絶望の縁に立たされた彼は、恋人の陽子と、ついにサルスベリの境内で解夏を迎えます。
(エンディング)
ここでさださんの曲、 たいせつなひと が流れてきて、ジーンときます。
…その隆之の家がある場所ということで、何度もスクリーンに登場した坂道を歩いてきたというわけです。

 時間は、 5時。ここで夕暮れを迎えられたら、なんかロマンチック!
まだ、当分、そういう空にはなりそうもありません。
「じゃ、行こうか」

 4日の夜は、前日の失敗を繰り返したくありませんでした。

 3日の夜、中華街に夕食を食べようと…。ところが、どこのお店も、長蛇の列ができてて、とてもとても…。とりあえず、どれくらいかかるか聞いてみたら、 1時間は軽くといった返事でした。ということは、もっとという意味ですよね。夕方 6時を回ってからホテルを出てきては、とても食べられたもんじゃないということがよぉっく分かったのです。
 大浦天主堂横で、感動に浸っていたわたしたち一家。
さあ、そろそろ行こうかと、そこを後にしたのです。
そして間もなく、オランダ坂の入り口にさしかかりました。
果たしてオランダ坂とは、いったいどんな坂であるか?
名前は、何度も聞いたことがあります。長崎の観光名所の一つとして、どこのパンフにも載っている名称。がしかし、そこがいったいどんな坂であって、なにがすごいのかをまったく知りません。当然のことながら、「行ってみたい」と、言ってしまいました。時間は、夕方近くの 5時10分。まだ間にあうだろうとの甘い考えでのことです。

 オランダ坂に入りました。
えっ!なに?この足触りは…。どうしたというのだ、このでこぼこ感は?
そしてとんでもない急勾配の登り坂に足を踏み入れてしまって、正直、あせります。ついでに、前から後ろから、ということは、上から下から、……

バコバコバコバコ、ボコボコボコボコ、ドドドドドドドド、ズダズダズダズダ、バタバタバタバタ、ボゴボゴボゴボゴ、ドダドダドダドダ、ズブズブズブズブ、……

くるわくるわ、クルマが次から次から、しかも勾配がきついからだろう、徐行なんてなまやさしい走りなんてやってられますかって勢いで、狭い道をとばして行くんですよ。白い杖をついていても、なんの遠慮もないってのは、こういうのをいうなって、思ったものです。笑い。

「周りになんかある?」
「たとえばぁ…」
「お店とか、なんとかさ」
「ないわよ」
「ゲッ」
わたし、東京の原宿みたいになっているかな、京都の嵐山みたいな感じかなとか、札幌の大通公園ふうかもとか、前情報いっさいなしで、勝手に思いこんでしまっていました 爆。
そうか、ここは、この石畳ふうの坂道そのものを楽しむんだ〜って気がついたってわけ。

 坂道の向こう側に降りてみれば、フーッと大きな息をついて、ハーッとしました。オランダ坂の感触が足の裏に、これを書いている今もあります。『わたしは歩いた』とね。

 時間はとうとう 5時半を回って、ついに到着。中華街に。そして、ここに来たかったんだ、江山楼。
時間はまだ 6時になっていない。入ってみたのは新館のほう。入り口には、もう人の列ができていました。聞けば20分ほどの待ちとのことで、即、「待ちます!」

「おまかせコースメニューでお願いします」
ドリンクはと聞かれて、紹興酒をくださいと、言ってしまいました。まただよ 笑。
料理は、どれもおいしかった。一品一品、なんという名前のと、説明をしてくれてたのですが、これを書いている今、ほとんど思い出せません。あまりにも日常にかけ離れた呼び名なだけに、フーンとは思ったけど、文字と料理がきちんと繋がる記憶ができなかったのです。
ここでもやっぱり、そうは言わなかったけど、角煮まんのようなのがありました。中華まんの皮。熱々のふかしまんの皮のようなものに、これまた熱々の肉の角煮をはさんでかぶりつく料理。トロリとした甘辛のたれの味わいと、噛むとトロリと柔らかい肉のジューシー感が口いっぱいに広がって、「あつっ あつっ」と、フーフーしながら食べるのです。

「ああ、来てよかった〜」  おいしい中華料理を満喫したわたしたち。ホテルに入って、ベッドにのびのびぃ〜〜 笑い。

「やっぱり一杯やりに行かないか?」
「そうねぇ」
子供が留守番してくれると言うので、ホテルを出て、江山楼に向かって歩き出します。その途中、お店の名前はなんだっけ? なんとかというホテルの1Fで、外の通りに面して入り口があって…、夜の10時すぎ。入ってみると、 2組のお客がいるだけで、静かな雰囲気は、ちょうどいい。

「なにになさいますか?」と、ウェイター。
「マタドールあるかな」と、メニューも見ず…。
「はい」と、即答するウェイターの声。
こうして長崎の夜はふけていったのでした。


熱海 2005年 8月13日

 昔、自転車で日本中を旅するって漫画がありました。タイトルは覚えていないけど、主人公の名前は輪太郎じゃなかったかな。
『あんなふうに日本中を気ままに旅ができたらいいよなぁ〜』
そう思っていたものです。だから、学生の頃に乗っていた自転車は、軽くて丈夫なサイクリングタイプでした。バイトでかせいだ資金に、お年玉を全部あてて買いましたね。それに乗って毎日、高校に通いました。夏休みには、もちろん日帰りですが、西や東に、いろんなものを見るために自転車こぎまくったなんて思い出もあったりします 笑。

 高校を卒業して、東京で学業を終えたら取るつもりのクルマの免許は取れませんでした。眼疾が一気に進行してしまったからで、カーツーリズムの夢はもろくも崩れ去ってしまいました。それでも、知人からもらった、ママチャリをしばらく乗ってみてはいました。さすがにスピードの出るサイクリング車は、マジ、怖いので、お蔵入りにしていました……。
そして今、わたしの旅は、白い杖と妻が頼りとなっています。

 品川から乗った新幹線ひかり。座席にゆっくり腰を落ち着けるまもなく、目的の駅、熱海に着きました。左手に白い杖を持ち、右手は妻の左手。背中にバックパック。これがわたしの旅スタイル。よく、リュックサックと言う人がいますが、違うんだなぁ。これはまぎれもなくバックパック。
アーサー・C・クラークのSFストーリーに 宇宙のランデヴー があります。〈ラーマ〉と呼ばれた、巨大な宇宙船……、あまりにも超巨大な宇宙建造物なのですが、それに乗って、はるかな宇宙の旅に出るという文庫本全7冊に及ぶ壮大なストーリーが、それ。そして宇宙のランデヴー 2から登場する人物にリチャード・ウェイクフィールドがいます。この人が愛用しているのが“バックパック”なのです。わたしは、このストーリーを読んで以来、背中に背負うものは、リュックではなく、バックパックにしているのです 笑。

 新幹線を降りてみると、そこはめいっぱいの夏。天気予報では、ほとんど日本中が雨か嵐か雷かが予報されていたにもかかわらず、熱海は、“絵に描いたような真夏”だったのでした。思わず、『ラッキー!』です。そしてホームを階段に向かって歩いて行く横を、新幹線ひかり407号は、スーッと流れるように西に向かって加速して行ったのでした。
そういえば、宇宙のランデヴーのストーリーにも、まるで新幹線のような乗り物が登場します。襲ってくるタコの化け物みたいな生物から逃げようと乗り込むなんて場面が思い出されます。

 改札口を出るところで、ふつうなら、自動改札機を通るところ。そこをあえて、窓口のある改札口に行きます。
「記念にこの切符いただけますか」と、中の駅員に切符を手渡すと、駅員がそれを改め、なにかハンコでも捺しているのだろうか、ほんの一瞬の後、はいとばかりに返ってきました。わたしは、それを受け取り、札入れに入れます。 <./p>

 わたしは、切符を集める趣味はありません。旅は好きですが、記念品だとかなんとかのコレクションの趣味はないのです。
では、なぜ?
職場にけっこうルックスのいい、H君というナイスなやつがいます。そいつが、なかなかのトレインマニアなのです。休みをまとめて取っては、すぐ電車に乗りに行ってしまうのです。そういえば、これを書いている今日も、東海道本線に乗りに行くと行っていたかな……。
その彼が切符も集めているというので、それなら、持ち帰ってくるよってことで、最近は「記念に切符をください」ってことにしているのです。

 初めて来た熱海。駅前まで来て、「ホテルまでどうする?」と妻。
駅前は、ホテルか旅館の、お出迎えラッシュです。
「バスにするかい?タクシーだと、ちょっと遠いかな?ホテルからの迎えは頼んでないんだよね」とわたし。
時間はまだ午前11時。とりあえず、バス停に行ってみることにしました。

 真夏の日差しの下、バス停は、『これからもっと暑くなるぞぉ!』とばかりに、セミがにぎやかに鳴いている所にありました。それでもそよ風が吹いてくれていたので、さいわいです。
『ほんと、もろ、真夏だよなぁ』と、アブラゼミと、ミンミンゼミと、それからなんとかってセミの大合唱を聞くでもなく聞いていると、隣のバス停に停車していたバスがお客を乗せて出発していきました。
『こんな熱波のの中で、ボーッと待ってるって、どのくらいが限度だろう?』ふと、そう思っていると、バスが来ました。
『ラッキー!』

 熱海の駅前を出たバスは、まもなく細い道をくねくねといくつか曲がって、いつしか海岸線を走る道路に出ました。……というところで、停まってしまいました。渋滞です。果たしていつ目的地に到着できるのだろう……。車内はエアコン効いているからいいけど…… 笑。

 少し走っては停まりを繰り返しているうちに、着きました。降りるお客はわたしたちだけです。そしてバスは行ってしまいました。
日差しは、駅前にいたときとは比べようがないほどの“夏”になっています。ちょうど大きな松の木の並木があったので、助かりました。目の前には、伊豆の海が広がっているらしい。海のにおいと、排ガスのにおい。割合は、4対6…、いや3対7、ときおり2対8かも 笑。渋滞道路は、クルマだらけなのだから……。

“いつか太平洋の海に入ってみたい!”
これが今回の旅の動機。
先月末、突然わいてきた思いで、行き先の海辺を決め、宿をおさえて、交通手段を予約して実現にこぎつけたのでした。

 場所は熱海より西に何キロか来たところ。長浜ってとこ。降りたバス停も〈海水浴場前〉とは、いかにもらしいでしょ 笑。
まずは、バス停まん前の宿にチェックインしてすぐ、浜へ出てみました。
「ここにしよう」と、ビーチのいちばん端っこ。少しだけ人がまばらになってきているとこにビーチバッグを置いて陣取ることにしました。Tシャツを脱いで、ビーチバッグに丸め込んで、さっそく海へと向かいます。
気温32°、水温28°。風そよそよ。日差しチリチリ。波おだやか。準備体操なし。

ザブザブザブザブ。
「つめたぁ〜」
日差しを受けてほてった体には、つめたぁ〜が、素直な感想。
それでもなお、ザブザブグブググブズブズブズブ。とうとう胸まで水につかってしまいました。さっきあれほど冷たいと思った水が、もう気にならなくなってしまったから不思議です。
「ねぇ、ここの砂、おもしろいね。きめの細かいところと、少し粗めのところがあるよね」
「うん、ここの砂って、わりと黒いのよ。砂鉄が多く含まれているのかしらね」
「ふぅん、それって、もしかして富士山から流れてきているとかってことないかな」
「ねぇ、もう足がつかない、もうそれ以上いかないで!」
「あっそう」
「ねぇ、やめて、やめてぇ!!」
「それそれ」
「キャーッ!いやー!戻って戻ってぇ!」

 さて、浜に上がったわたしと妻。波打ちぎわに腰掛けて午後の日差しを受けながら、ゆっくりすごすことにしました。
「ねぇ、日焼け止めクリーム…」
「いらないいらない。少しは焼いておかないと、白くてみっともないからね」
「背中の皮をぬいてあげるね」と、不敵な笑みを浮かべる妻。
「こぉんがり、まぁる焼けだよ、まぁぁるやけ」笑い。
そう言って、また、いつものように砂浜に穴を掘り始めるのでした。
この日、けっきょく波打ちぎわに、デェッカイ穴を掘ってしまったのでして、ということは、その穴の横には、そこから掘り出した砂で作ったデェッカイ砂山ができ上がってしまったのですが…… 笑。

「さぁ、そろそろ引き上げようか」
あれほど強かった日差しも、もうすっかり西に傾いて、弱まってきています。場内アナウンスも 5時に駐車場の出入りを閉めるって言っているし、引き上げ時でしょうってことだね。

 ホテルに戻ってすぐ、浴槽にお湯を張って、ザブンと入ります。
「気持ちいい〜!」 肩と背中がちょとチリチリするけど、この痛いくらいが気持ちいいぃって、おいおい。いつからそんな趣味になったんだい?ってね。笑い。
すぐ目の前にビーチがあって、しかも温泉を楽しむことのできる宿。これが今回のインターネット検索のポイントだったのです。
ホテルの部屋に入ってみると、ベッドが二つ。窓を開けてベランダに出てみると、その一画に大きなたらいのような浴槽がしつらえてありました。つまり、露天風呂つき部屋です。
お湯に入ってみると、なんだかフワフワする感じ。もしかしてと、注ぎ愚痴から出てくるお湯を指にすくって、ペロリなめてみる。
「しょっぱぁ!こりゃ、温泉だ!しかも塩の温泉だよ。比重が大きいから、なんかフワフワするんだねこりゃ。それにしても気持ちいいねぇ!みゃんぞくみゃんぞくぅ〜〜」

 湯から上がって、しばし。窓際の椅子に座ってボー〜〜ッ。
妻の入れてくれたお茶をすすって、ボー〜〜ッ。
クーラーのきいた部屋でボー〜〜ッ。
『この虚脱感がたまらんねぇ』と、思っているところに電話が…。
「さあ、夕食を食べに行こうか」

 朝起きてみると、窓から差し込む光のシャワー。気持ちいい朝を迎えました。
昨夜、夕食を食べて部屋に戻ってみると、たたきつけるような激しい雨です。こりゃいかんとばかりに、ベランダに飛び出して、そのあたりに引っかけて干してある水着やバスタオルなどを取り込まないとって、あたふたあたふた。さいわい、ベランダへの雨の吹き込みはたいしたことなくって、ほとんど被害なし。それにしても、ものすごい雨と雷。こんな嵐が昼間に来てたひには、海も何もあったもんじゃなかった。

 話はいきなり午前11時台。JR山手線は内回りの電車の中。車内アナウンスが池袋を告げます。
「さあ、降りるよ」と、立ち上がり、妻とドアに向かいます。
ホームに出て、階段へと妻にガイドヘルプしてもらいます。今自分はどちらの方向に向いているのか、どこをどのように曲がったのか、どのくらい歩いたのか、頭の中にある池袋駅と、その周辺の地上と地下と、建物の上から下までの三次元の地図をイメージし、そしてその中に今いる地点をポインティングします。
「そこに地下鉄の入り口はないか?」
「あるわよ」
「それは丸ノ内線だね」
「ねえ、左に階段があるけど…」
「うん、いいんだ、このまま行くよ」
「もうずいぶん来たけど…」
「そこに階段はないかい? そこを上がって出るよ」
「後ろを見てごらん。西武デパートがあるだろ」
「ほんとだ!パルコも見えるわ」
「さあ、このまま行くよ」
「ねえ、右と左のどっちに行くの?」
「左にみんな向かっているだろう。そっちでいいんだ。右も行けないわけじゃないんだけど、こっちでいいんだ」
「そのあたりに地下に向かう入り口がないかい?そこから入ろう」
こうして、妻に風景をたずねては、記憶の中にある池袋を歩いていく。久しぶりのサンシャイン60の最上階は、人でにぎわっていました

 60階の高さから見える東京は、少しもやってはいるけど、こりゃ間違いなく晴れ。だいたい、東京がもやらないで、すきすきに空気が澄んでなんて、めったにないんだから、今日も見事に晴れってことだね。
超高層ビルのてっぺんから見える風景。わたしの記憶の25年前にさかのぼります。もちろん、変化しているに違いありません。それでも、「あれは何?」と聞かれれば、「その方向ならたぶん…」と答えられる。かつてそんなものはなくても、今そこには何があると、仮装空間の風景があるから……。
目の見えないわたしが、目の見える妻に、道を案内し、風景を解説する。たまには、こんなシチュエーションもいいでしょう 笑。

 今回のおみやげは、サンシャイン最上階で描いてもらった二人が、並んでいるイラストが一枚。今、机の上に置いてあります。そのうち、額縁かなにかに入れよう……。

 さて、話は、あの日の池袋の午後に戻ります。
サンシャインを下りて、さっき来た道を戻って、そして、また、地下に入り、そこを通り抜けて、向こう側、池袋駅をはさんで、さっきとは反対側の地上に出ます。そしてさらに歩いて、東京芸術劇場。
ここは、わたしの記憶にはない、新しい場所。池袋西口駅前の仮装空間の地図に新しい建物を追加しなければならないのだが、どこでどうまちがったのか、地下から地上に出るポイント、そこから歩いた方向の見当がずれてしまっていたため……。
「ここから丸井は見えないか?」と、妻にたずねる。
「ううん、ないわよ。まるいってなあに?」
「えっ!?……」絶句。
いったん方向を見失った地点、地下に戻って、出直すことも考えたのですが、それよりも、このまま行けばなんとかなるで、行くうちに、とうとう見つけました。

 東京芸術劇場では、春風亭小朝さんの司会で進めるドボルザークの名曲がこれでもかと演奏されていました。ところが、わたしときたら、まったく別世界に入り込んでしまっていまして、せっかくの名司会も曲もまったくといっていいくらい、耳に入っていませんでした。
『ここはどこだ?なぜ丸井はない!いったいどうなったのだ。どこかで道を間違えたのか…』と、延々と続く自問自答の暗闇の中。
『ここにいて、どれだけ考えていても何も答えは出ない。早く外に出てたしかめなければ…。早く終わらないかな〜〜。帰りまでの時間が限られている。ここを出たら、すぐ、たしかめよう。だいたい、どこから地上に出たのだ?そこに勘違いがあるに違いない……』
『それもいいけど、そういえば、あそこにまだ立ち食いそば屋はあるだろうか? ……ここを歩いていけば……、あっそうそうあそこで食べたチョコレートペーストをトッピングしたソフトクリームはうまかったなぁ。 ……で、ここからこう行けば、ああ……、エラーの修正などいつでもいい。またいつか来るだろうし、それより……。

 場内は拍手の嵐。コンサートは終わりました。
そしてわたしの思い出のリプレイタイムも終わりました。せっかくのコンサートはまったく耳に入っていなかったけど、これはこれでいい。シートから立ち上がります。
「さあ、帰ろう」


研究発表 2005年 9月17日

 わたしの職場では、全国レベルの高齢者医療福祉関連の研修会に積極的に参加するようになって、ずいぶんになります。1999年9月には、わたしも 介護療養型医療施設全国研究会に参加する機会がありました。
そして、2003年、わたしの職場を含む関係10施設ほどで研究会が発足し、毎年、各施設から、研究発表が行われるようになりました。その年と翌年は、看護科で研究し、研究報告会で発表。そして、今年は、リハビリでやってくれないか?の打診がありました。
これまで、他部署での取り組みに少しだけ関わってきましたが、いよいよ我が身に降りかかったか!です。どうせいつかやることなのだし、早い内にやっておけば次に回ってきたとき、誰か他に振り向けることができるかもしれないし、もし、それがだめなら、今回のをお手入れして、ちょっとグレードアップすれば、なんとかなるだろうと、ものすごぉく安易に考えて受けてしまったのでした。

 ところが、研究テーマを決める段階、つまりしょっぱじめから、ごたごたしてしまったのです。例えば、何か機能訓練をしたとしましょう。そして、それによって、どうなったのか?をデータで示してといくわけです。でも、もう既存の研究にそれがあるのか?ないのか?あるなら、同じ結果を得たのか?得なかったのか?きちんと考察しなければなりません。ないのであれば、一番最初の取り組みとなるわけです。いい加減なものを提出するわけにはいきません。そうしているうちに、どんどん日が経っていきます。と、そこに、ちょいアドバイスが入りました。わたしはそれに飛びついたというか、そうせざるを得なかったのです。

 研究テーマが決まりました。次は、研究方法と、具体的な計画。そして結果。その結果から考察という一定の論文形式で成り立っていなければなりません。ここにあるのは客観的な事実、論理だけなのです。読書感想文みたいなものは必要ないのです。

 研究方法を決めて、計画を立案。約1ヶ月かけてデータを収集し、それを分析し、考察を書き、一本の論文を書き終わったのが、8月末。提出期限ぎりぎりのセーフ!もう今更、やり直しはききません。だめ出しされたらどうしよう〜のドキドキもので待っていました。
そして待つこと1週間余り。ゴーサインが出ました。よかった!後は、研究発表会当日です。

 研究発表会では、演者が演題に立って講演するとき、自分の発表原稿をほとんどの人は、読み上げます。でも、わたしはそれができないので、覚えるしかないのです。ですから、それから発表当日まで、7分の原稿をひたすら暗記し、実際にしゃべってみるということを夜な夜な、早口にならないように、言葉の滑舌も良くなるように、何度も繰り返し練習したのですね。
最近の研究発表は、プレゼンもつきものです。わたしもパワーポイントで作りました。聞いている方々に、より理解をしていただきたいからですね。そのためには、ジャストの田民具で「次お願いします」と、プレゼン係に指示を出すことになります。原稿を読み上げるのであれば、その原稿に、例えば赤字で、レ点でも入れておけばいいかもしれません。わたしの場合は、そうはいかないので、それも含めて、の読み原稿を作って、それを暗記するわけですね。

 発表当日。県の小ホールを貸し切りで、午後1時、研究発表回が始まりました。わたしは、一緒にステージに上がる四人の演者たちと控え室で時間を待っています。もう心臓ばくばく。他の人たちは、余裕でおしゃべりしていますが、わたしはそれには加わらず、ひたすら黙して、頭の中で読み原稿を読む、リハーサルを繰り返していたのでした。

 どうやら、一つ前のグループが終わったようです。とうとうと言うか、ついにと言うべきか、わたしを含む五人のグループにお呼びがかかりました。控え室から順番にステージへと段を上がっていきます。わたしの椅子は、2番目。座長は、院長です。
一人目がコールされ、演台に進み、発表を始めました。そして拍手。椅子に戻ります。次はわたしです。
……
終わりました。途中一回ぎくしゃくしましたが、ほぼ時間ピッタリ。ほぼほぼリハーサル通りに発表できました。後は、フロアからの質問がなければいいのですが……。

 五人がステージから控え室に戻り、会場に準備されている演者席に戻りました。フロアからの質問もなく、ほっとしています。ステージには、次の演者五人と座長が上がっています。わたしの心臓は、まだ落ち着きません。とにかく、やるだけのことはやったので、後は野となれ山となれです。

 研究発表回の全スケジュールが終わったのは、午後4時20分。わたしは、一体どんな顔をしていたのでしょう?きっと、…… 笑。
それにしても、追い詰められたとはいえ、たかだか2ヶ月で、よくやったものだと、自分で自分を褒めてやりたい 笑。


Guam 2005年12月29日

 時間は午後 5時をすぎたところ。時計は合わせました。
妻がベランダに通じる部屋の窓を開けて外に出ます。わたしも彼女に続きます。
空は、曇り。風はほとんどなし。空気は半袖でちょうどいい暖かさ。
ベランダのテスリに捕まって下を見下ろして見れば、クルマのエンジン音や人の話し声、それにエレベータのウィンチのグゥィーンという音が、右のほうから、どこからか野鳥のチュンチュンチキチキとさえずる声も聞こえてきます。
「残念。こちらは海のほうではなかったのか…」と、わたし。
テスリから離れ、ベランダの中程にある金属のフレームにビニールを張った椅子にドッカと腰を下ろして、フーッと大きく息を吸い込んでみると、暖かで、ちょっとだけ湿り気を帯びた空気。すこしだけ海の香りがします。

 ここは、ヒルトングアムの12階。
わたしにとって 2度目の海外旅行は、新婚旅行に来たことのあるグアム。もし、できるなら、あのときと同じホテルにと思っていたけれど、もうあのホテルは別の名前の別のホテルになろうとしていました。宿泊プランの中にも、そのホテルは入っていなかったようです。

『またグアムに行きたいね』は、妻とわたしの念願でした。
たまぁに旅行プランは、チェックしてみてはいました。成田からだと、まずは羽田に飛んで…。名古屋からだと、JRでアクセスだし、関空からでもJR乗り継ぎのアクセスってことだから、国内で前泊で、戻ってきても後泊ありってことになるケースがほとんど。予算増もさることながら、日程のプラス部分が、ネックでした。けっきょく、休みを取れないってのが、最大の引っかかりなのだから、当分、海外ってのは、無理かな〜〜で終わってしまっていたのでした。

「地元空港からグアムに飛ぶ便が出るらしいのよ!」
「それはどういうこと?チャーターってこと?」
「うん、そうなの。でももう遅いかな」
「すぐ、聞いてみよう。もしかして、まだあるかもしれないじゃないか」
「うん」
「で、それはいつなの?」
「年末年始便らしいの」
「いいじゃないか。たぶん、一年でいちばん高いのかもしれないけど、聞くだけ聞いてみようよ」
そして、残りたった一つ、二名の空席をゲットしたのでした。

 12月3日に初雪を記録して以来、雨続き。今月はもう降らないのかな?と思っていたら、中旬に一気50cmもの積雪。そしてホワイトクリスマス、最低気温が氷点下を一週間記録した後の29日の朝。
「パパとママはグアムに行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
「おみやげ買ってくるからね」

 空港を離陸したジェットは、機首を南に転じながら、上昇していきます。窓から見えるのは、晴れた空と、城の大地。
白い大地は、まもなく雪のない地面に変わり、そして見渡す限り海と空の景色になりました。

「今お渡ししたカードが部屋のキーになっています。何も書いてありませんので、なくさないように…」
こうして、ヒルトンホテルの 1階ロビーで、旅行添乗員は、他のホテル行きのお客の待つ送迎バスに向かって歩き去っていきました。
耳を澄ましてみれば、周りから聞こえてくる声は、やっぱり日本語じゃないみたいだ。
『とうとう来たんだな』と、思う。
「さあ行こうか」と、わたし。
一緒に降り立った日本人宿泊客もわたしと妻の後からぞろぞろエレベータに向かって歩き出したようです。

 フロアは12階。最初にエレベータから降りたわたしたち、通路を順に部屋はどこだろうと、ひとつひとつルームナンバーをたしかめながら歩いていきます。そしていちばん奥、廊下の突き当たりまできました。
「あったあった、1296。まちがいない」
しかし、部屋のドアロックは開きません。
カードは、間違いなくインサートに差し込んであります。にもかかわらずランプは赤のまま。青になりません。何度繰り返しても結果は同じ。
「This door won't open!」、そう言いながら、思わず、ドアを蹴飛ばしたくなります。一緒に来た、他の客たちは、どんどんそれぞれの部屋に消えていくというのに、わたしと妻だけ、通路にぽつり。
「へんだね」
「間違っているのかしら……」
「試しに向かいの部屋でやってみるか」
カチャリ!
「えっ!」
「開いちゃった」
「こりゃカードキーが違ってたってことか。もう一回ロビーに行くしかないね」
文字で書いてみると、落ち着き払っているようになっていますが、このとき、ほんとは鍵が開かなくて、入れ方が違うんじゃないかとか、あれこれ、ほんとすったもんだやってたんだよね 笑。

 さて、原因が分かってしまえば、お気楽なもので、また今来た道を 1階ロビーのカウンターに向けて、大きな旅行トランクをごろごろひきづりながら戻って行ったのでした。
『それにしても何て言えばいいのかな?…スキューズミーはいいとして、その後だよ。… This key is wrong.…かな?で、後はどう言う?』なんて考えながら、内心ちょとあせります。

 話は前後して、子供たちに行ってくると言ってから、父の車で空港まで送ってもらいました。国際便出発カウンターは、搭乗を待つお客たちでごったがえしていました。わたしと妻の乗るグアム便以外に、中国上海行きのお客もいたからです。
搭乗カウンターで搭乗手続きを終え、小荷物預けをして、待合いロビーで、缶コーヒーを飲みながら、ぼんやり。
『仕事休んじゃったなぁ。今日の会議は休み。書類は昨夜きちんと作ってきたはずだし…』などと遊びで仕事を休みにしたことへの罪悪感が頭の中を埋め尽くしてきます。
『ったく、なんでこんなに仕事中毒になっちゃったんだろう。わたしがいないと回らないとかって言われたいってか?』
グイッとばかりにコーヒーを飲み干し頭を持ち上げ、『頭垂れてるぞ!呼吸が停滞している。血中酸素分圧が下がってしまっている。酸欠になれば、細胞レベルの元気がなくなる。細胞が元気なければ、ろくな運が来ないじゃないか。頭を上げろ上げろ!ちゃんと息をしろ!すんだことは忘れてしまえ!おまえ、たいした給料もらってない。今回の旅行だって、冬のボーナス全部回しても足りていない。つまらないことは忘れてしまえ!』

 搭乗のアナウンスがかかりました。
「さあ行きましょう」と、妻。
ゲートを通過して、ジェットウエイから機内へ入り、座席に腰掛け、ベルトも締めます。しばらくして前部昇降口のドアが閉じられました。コンチネンタル・ミクロネシア航空 リゾートシャトル990便は、駐機場からなめらかに動き出し、そして、ジェットエンジンの唸りが上がるとまもなく、滑走路の突端に向けて突っ走り、雪で真っ白の外科医を後に、ぐんぐん南に向かって上昇を続けていったのでした。

 乗ってみれば、ボーイング737は、なんかなつかしい。スリー アンド スリー。通路を挟んで左右に 3席ずつ。指定された座席に座ってまもなく。機内放送が流れてきました。
「ペラペラペラのペラペラペラペラ」
『ゲッ!今のたしかに英語。なのに聞き取れない。オレの英語力はこれほどまでにさび付いてしまっているのか…』
続いて客室係からも「Blah blah blah ...」やっぱり英語だと分かるだけで、何を言ったかほとんど分かりません。もちろん、直後に、日本語で通訳放送はありました。でも、そんなん、英語の聞き取りのなんの助けになるというのでしょう!
そう、学校を卒業してずっと、英語を聞くことはほとんどなく、話すことはさらになしの毎日。
しかし、よく考えてみれば、だいたいそれほどたいした英語力を持ち合わせていたことがあったはずがないのです。やっていたことは、共通一次対策の試験英語だけです。日常会話を身につけたことなんて未だかつて一度もなかったことに気がついただけだったのでした。

 英語ができないまま、英語の島に来てしまいました。ヒルトンホテルの 1階ロビー、もうカウンターは目の前。『何て言えばいいのだろう』と、気持ちがちょとあせります。
「どうかなさいましたか?」
『えっ!日本語?』
「あの、この鍵、間違っています…」

 そうして待つことしばし。これこそ、正しい“鍵”を受け取り、今来た道を引き返して行きます。
 カチャリ。鍵は開きました。
ドアを押し開け、中に一歩。
「うわぁ、さむぅ」
「クーラーの効きすぎよ。スイッチはどこかしら…」
トランクをそのあたりに置き、ベッドにホイッと飛び乗る。そしてグゥーンと大きく背伸びをしてリラックスします。わたしがホテルの部屋に入ってやる、毎度お決まりの、そう儀式みたいなものを。
そうして、眠ってしまいそうになった頃、妻は、クーラーを切り、部屋を一回り見て、ベランダに通じる大きなガラス窓を開け、外に出ていきました。
「なにしてるの?」
「ベランダに出てみたの。あなたも来ない」
わたしは、ベッドからむっくりと起きあがり、妻に続いてベランダに出ました。
「へぇ、以外に広いんだ」

 グアムに着いたとき、時計は 3時半を過ぎたあたり。時差は 1時間早いというので、 1時間だけ時計を進めます。今は、現地時間で午後 5時を過ぎたところ。日本にいれば、もうとっくに真っ暗のはず。なのにここはまだ夕方……。
下から聞こえるのは、クルマのエンジン音と、人の話し声。それに野鳥のさえずり。
『こちらはどっちなのだろう?どうやら海の方ではないのだな』と、音からさっしをつけます。テスリから放れ、手近な所にあった雨に濡れても大丈夫ってふうのビーチチェアに腰を下ろし、妻と向かい合います。
「とうとうグアムにきちゃったね」
「そうね」
南の島のリゾートホテルの一室に二人。なんか20年前にフラッシュバックしたみたいな錯覚に陥りました。

「さあ行こうか」と、わたし。
ホテルの 1階に降りてみれば、ポップな音楽が聞こえてくる一室があります。なんとも香ばしいパンの焼けるみおいとコーヒーの香りが花をくすぐります。そして、フロア一面においしそうな料理のにおいも漂っています。
午前はほとんど空港で過ごしました。昼から午後は空の上。着いてみれば 1時間時計を進めての午後 6時。まだ当分お腹はすかないよななんて思っていたのに、なんとなくおいしそうなにおいにつられてお腹がへってくるから不思議なものです。
ふつう外国のレストランといえば、入り口で待って、テーブルに案内してもらうものだと思って、そこにとどまってみます。ところが、人の気配がありません。おかしいなと思いながら、数歩入って行くと、右の方から「Reservation?」と女性の声。
はじめからそこにいたのか?それとも、客が来たのでかけつけてきたのか?いずれにしても予約はしていないので、「No,」と即答します。
「Two?」
「Yes,two.」
「Seven thirty. Ok?」
「Ok. Seven thirty.」
「7時半にしたから、ちょっとそのあたりで時間を過ごそう」と、妻に。
英語で話しかけられた瞬間。ちょとどぎまぎもしました。けど、向こうも単純な単語だけで話してくれたから、すぐ応じることができました。『よかった』これがわたしの正直な気持ちです。

ロイズ・レストラン。アジアの味わい、太平洋の新鮮な素材をヨーロッパの伝統的調理法で融合させた、そんなレストラン。
コースはディナーをお願いしました。
スープはコーンポタージュ風、サラダはどこかシーザー風。パンは、やっぱナンみたいだよ。なんとも不思議でおいしい。
そのうち、テーブルに食べる物がなくなりました。ドリンクも空です。メインはまだかなと思いますが、あの時もそうでした……。
20年前。「ここはなににつけてものんびりしていますから、日本人は、早くこちらのペースに慣れないといけませんよ」と、現地ツアーガイドに教えてもらいました。だから、わたしたちも島時間に合わせていたのです。

メインは、「Fish or beef?」と聞かれて、迷わず「Beef.」と答え、焼き加減は「Medium.」と言いました。
そしてしばらくして、来た。来ましたよ、デッカイビーフステーキです。

 わたしは、ふだん、割とベジタリアン。食べ物に好き嫌いはありません。肉も魚もなんでも食べます。けど、血中コレステロールが数年前より200を越えてしまっています。そんなわけで肉や油っこいものは、少し控えるようにしてきました。減塩にもそれなりに気を付けてて、わたしは醤油やソース、ドレッシングの類はまったく使わないようにしています。素材の味のままを食べるようにしているのです。
「そんな味気ない物、食べられるか!」との向きもいらっしゃるでしょう。でも、慣れるとけっこう味付けなしでもおいしいものなんですよ。
いちおうコレステロールが高いと…、から肥満?と思われるかもしれないので、書いておきます。身長170、体重62です 笑。

 余談はさておき。デッカイビーフステーキにナイフとフォークで挑みます。味わいは?と一口食べてみると、案外、素材の味わいのまんまに、ほんのりとソースがからんでいるってふうで、よかったってのが正直な感想。
わたしと妻。どうにかデッカイビーフステーキをたいらげ、ふぅっとため息。
「おいしかったね」
「うん、おいしかった」
「ちょっとクーラー効き過ぎ。寒くない?」
「寒いくらいだね」
「ねぇ、もうずいぶん時間たつけど、忘れられてない?」
「そうかぁ?こういうとこなんじゃないの。のんびりしてるんだよ」
そして、そのうち…
「おい!いつまで待たせるつもりだ!おい、そこのおまえ!マネージャーを呼べ。マネージャーだ」
声の主は、若い日本人男性でしょう。怒りにまかせた失礼きわまりない怒声がレストラン中に響き渡りました。なんともいやなものを見てしまったものです。

 レストランに入って、テーブルに案内された頃。ギターのなま演奏で「ハッピバースデイ ツーユー。ハッピバースデイツーユー…」と、少し離れたテーブルあたりで歌っていました。
わたし:「へぇ、誰かバースデイのお祝いしてるんだ」
妻:「おんなじ日の人って、いるものなのね」
わたし:「いるもんなんだね」
妻:「あなたもお祝いしてもらう」
わたし:「いいよ、恥ずかしいじゃないか」
ウェイトレス:「Menu?」
わたし:「Well, I'm blind.」
ウェイトレス:「Oh! Sorry.」
妻:「この人、今日が誕生日なんです」
わたし:「おいおい!」
ウェイトレス:「Happy birthday.」
…と、こんなやりとりがありました。

 それにしてもいやな日本人を見てしまったものです。
そんな出来事があって後、マネージャーとおぼしき男性が、わたしたちのテーブルにきて、片言の日本語まじりの英語で、謝罪を始めました。でも、意味は分かったのに、適切に変じを返すことができないのです。わたしたちは、まったく怒っていない。わたしたちはあんなクソ野郎とは違う。あなたは謝らなくていいと言いたかったのに、何も言うことができないのです。そのことが残念でなりません。しかし、本当の残念は、あんな失礼な馬鹿野郎と同じと見られてしまったことです。日本人はみな、短期で怒りっぽいと思われているのだろうか……

 …と、そのとき、「Happy birthday!」と、何人かの男女がきました。
「Happy birthday to you. Happy birthday to you. Happy birthday ……」と、ギターの弾き語りが始まりました。
「How old are you? おいくつですか?」
「Well… Four… Twentyfive!」
「Twentyfive?!」
「Yes.」
笑い、笑い、笑い。
「He is fifteen!」と、女性の一人が、ギターを弾き語りしてくれた男性を紹介してくれました。
「Wow!」
笑い、笑い、笑い。
さっきまでのいやぁな空気がいっぺんに吹き飛んでしまいました。みんなありがとう。

 島内観光の話。

「ここ前にも来たはずなんだけど、なぜかしっかりした記憶がないなぁ」
こんな階段があった…と、思う。こんなふうな広場だった…ような気がする。昼と夜と 2回も来たはずなんだけど、はっきりとした記憶は、ここで写真を撮ったり撮ってもらったりとしたってことだけ。

 あの時は、新婚旅行でした。11月25日の成田からコンチネンタル・ミクロネシア航空でグアムに来ました。機は、たぶん、今回と同じタイプのボーイング737。ほぼ満席だったと思う。127人いた搭乗客のうち、124人が新婚カップルだったという熱々フライトだったはず…。
グアムの空港ターミナルビルは、今のよりずっと小さかったような気がします。もしかして、あれから数年(?)後のグアムの震災の後で、建て直したのでしょうか…。
それにしても変わらなかったのは、ほおづえをつきながら、暇? やる気のなさそうなふうで、手渡したパスポートをちらっと見てほいっと無造作に返してきた税関のお姉さんが相変わらずいてくれたこと 笑。

 同じといえば、グアム到着は午後。時差 1時間をプラスして、ほとんど夕方近くになっていたのは、新婚旅行のときと同じ。翌日の島内観光のオプショナル・ツアーに申し込んだというのは、どうせなら、そこまでも同じにしちゃおうという意図がありました。違っているのは、あれからちょっと、年齢を重ねたってことぐらいかな 笑。

 朝 9時にロビー集合。
昨夜、すっかりくつろいでしまって、モーニングコールで起こされるまで、まるっきりの爆睡をしてしまったわたしと妻。飛び起きて、あわただしく洗面、整容、着替えて出かける用意をして、妻と二人、部屋を飛び出してみたけど、朝をどうするかについては、とりあえず行ってみてからとしたのです。
1Fロビーに着いてみると、なんとも香ばしいパンの焼けるにおいと、コーヒーの香りが鼻孔をくすぐってきました。
「ここで朝食にしよう」と、言ってみたはいいが、カフェ・チーノのカウンター前には、長蛇の列。ここに並んで、集合時間の 9時に間に合うのかなと思うが、他にどうしようもないので、一応並んでみます。しかし勝手が分からないというのは、こんな時に、思わぬヘマをしてしまうもの。カウンター前にできている二つの列の意味が分からないのです。とりあえず手近の列の最後尾についてみましたが、隣にもっと短い列があるのです。なぜ、そちらに並ばないのだろうか?と疑問を感じ、列を移動しました。
それは、間違い。短い裂は、注文の受け取りだけの列だったのです。それで、もう一回、長い列の最後尾に戻ることになったのでした。

「あっ!○○さんが来たわ」
「もう集合時間ってことか。残念、朝抜きにしなくちゃいけないかな」
「えぇぇ〜〜」
「ああ、ここにいらっしゃいましたか。まだ時間ありますよ。どうぞ朝をめしあがってください」
「そうですか、それはどうも」
こうしてあわただしい朝食を終え、ホテルを後にしようとしたところで、デジカメがないことに気づいて、ちょと動揺。最近、旅にデジカメをあまり持っていかなくなっていたのです。持っていかないというよりは、むしろ持っていきたくなくなったというほうが表現としては当たっているかもしれません。
これまでは、旅にデジカメは、つきもの。記録を残したくて、音に集中して、被写体にレンズを向けて、撮っていたものです。昔のようにフィルムで撮っていた頃は、フィルム代も馬鹿にならないし、撮った痕のフィルムの現像にも料金がかかるし、なによりも写真や着付け代金の高かったこと。そのことを思えば、デジタルカメラは、それら全部ゼロ円なんですから、お手軽そのものです。そういう動機があって、初めの頃は、見えなくても写せる!と、シャッターを切っていたのです。でも、一人では、まったくたいした物が写せていないことが続き、誰かの目を借りながら撮影しているうちに、だんだん自分の主体性がなくなっていっているように感じ、つまらなくなってきていたのです。被写体の言葉による説明もないまま切ったシャッターなど、なんの思い出になるだろう?だから、できあがった写真を後から整理するという熱意も、どこかに行ってしまっていました。

『デジカメは、たぶん、ホテルの部屋のテレビ台の横あたりに置いたままなのかもしれない。』
あわただしく部屋を出るときに、デジカメをという気持ちより、白杖を持っていこう!のほうがずっと強かった。だから忘れてしまったにちがいありません。デジカメを持ってこなかったことは、妻の不評をかってしまいましたが、わたしとしては、内心もうデジカメにはたいした愛着もなくなっていたのです。

 島内観光のイベントは、ヒルトンの庭園のチャペルの前で恋人岬をバックに、集合写真を撮るところから始まりました。そしてすぐバスに乗り込み、西の方に、アフガンとりでに向かいました。……と思う。実は、グアムの正しい地理感覚がほとんどありません。日本に帰ってきてから、これを書くにあたって、もそっとイメージを確かにしておこうと、とあるグアムの観光本を入手してOCRしましたが、地理感覚、道順の説明は全くなかったため、その手の記述は望めないことになりました 笑。

 バスはアフガンとりでに着きました。
ここ前にも来たはずなんだけど、なぜかしっかりした記憶がありません。こんな階段があった…と、思う。こんなふうな広場だった…ような気がする。あのときは昼と夜と 2回も来たはずなんだけど、はっきりとした記憶は、ここで写真を撮ったり撮ってもらったりとしたなってことだけです。今回も、みんな写真を撮ったり撮ってもらったりに興じています。わたしと妻を除いては…。
欄干に手をついて、ずっと向こうの湾の方に向いてみます。『けっこう風強いな。こっちはどっちの方角なんだろう?』などと思ってみたりして、時間を過ごします。
こうして島内観光は、ラッテストーン公園、スペイン広場、恋人岬へとカメラのないまま、なんの写真もないまま進んでいきました。あるのは、どこでどんな物を触ったか、味わったか、感じたか、気持ちになったかってことだけなんですが、それよりも、案外、時間に追われてたってことがいちばんの記憶だったりします 笑。
バスを降りるときに、ガイドの Lさん、「何時何分に集合です!」と号令をかけます。この短い時間制限が、気になって、なんか『さあ次、はい次、さあ行こう、それそれそれそれ』と、ポンポンポンポン背中を押されてたって感じなんだよね。どうも時間を区切られるってことが、五分前行動のルールに火をつけてしまうのはどうしたものだろうか……。

 アフガンとりでの所で、ヤシの実ジュースを売っているおじさんがいました。バスを降りる前に、ガイドさんから、ヤシの実のジュースもいい。できたら、ヤシの実の果肉も食べてみるようにと言われていました。わたしとしては、見るものもないわけで、はじめから、それが楽しみかななんて思っていたりして……。
人だかりのする方に歩いていって、『いいな…いくらかな』なんて思っていましたら、「5ドル、5ドル」と言いながら、おじさんが、なたのような大型ナイフで切れ目を入れたヤシの実にストローを 2本差し込んだのを手渡してくれました。わたしは、さっとそれを受け取り、妻に支払いを頼んだのでした。
ヤシの実ジュースは、ほんのり甘くて、ちょっと独特の青臭さがあって、おいしいと思いました。妻と二人、チューチューやって、あっというまに飲み干してしまいます。ハーッと息をついて、「これ、どうしたらいいのかな?」と妻と話をしてたら、手渡せというジェスチャがあったようで、妻が手渡すとナタのような物でパンと割って、中の果肉をスライスしてそれにわさび醤油を付けて割り箸と一緒に返してくれました。
それを箸でつまんで、口に運びます。椰子の実の香りがして、口に入れてみると、さくさくとした食感に、さっき飲んだジュースの味と、わさびの辛さが口に拡がって、まぁ、なんともうまいんですな、これが 笑。
今回の島内観光のベストファイブに入れたかったので、ここに紹介したというわけです。

 島内観光は、アフガンとりで→ラッテストーン公園→スペイン広場を後西、後半のイベントへとスムーズに流れていきました。
バスは、アガニア湾沿いから、タモン通りの西の果て、ヒルトンロード入り口から、東へと、どんどん進んで行きます。タモン通りは、グアム最大のホテルの立ち並ぶ通り。西はヒルトンから、東の大蔵までの間に、いったいいくつのリゾートホテルがあるのだろう?それにしてもすごい交通量です。前回来たときは、タモン通り沿いには、未開の森林がずっとあって、その切れ目切れ目に、建物がそっとあったってぐらいだったと思う。それが、まったく逆になっていました。変われば変わるものです。

 DFS。
Duty Free Shopの略。
グアムでは、ふつう、パスポートは携帯しなくていいと最初にアナウンスがありました。ただし、その代わりに“アイランドパス”なるカードを携帯してくださいとのことです。
DFSとは、免税店のことで、入り口でアイランドパスを見せて入店してみれば、それはそれはでっかいショッピングセンターだったのです。そして、その中にずらりと並ぶ、グッチ、エルメス、ティファニー、バーバリー、エトセトラ…。わたしは、妻に店に入っては、名前を、たぶんブランド名を次々と聞かせてもらったのですが、右から左、ほとんど馬の耳になんとやらになっていたのでした。
とにかくカバンひとつ手にしては、「これいくら?」と、妻に見せます。
「えぇっと、890ドルよ」
「890だって?今のレートだと……10万円…… なんだって、こんなちっぽけなカバンに10万円も払うってか!」と、あわてて元に戻します。
「この財布は?」
「…430ドルね」
「……5万とちょいって計算になるけど…、なに!こんな財布に5万だって!」v ものの価値が分からないってのは、困ったもので、グッチだか、ディオールだか知らないけど、なんかべらぼうに高い気がして、とっても買う気になりませんでした。それでも、多少値が張っても、妻が気に入れば、プレゼントの気持ち100%だったのですよ 笑。
けっきょく最後まで手ぶら。ということは妻もそれほど魅かれなかったみたいです。

こうしてでかいでかい免税店の大型店舗を時間いっぱいため息をつきながら順番に見て回ったのでした。あっそうそう、ため息といえば、エルメスのお店でだったと思う。日本人の家族4人…、たぶん、父母に、息子と娘って感じかな?父とおぼしき中年をちょっといったふうの男性が、息子と娘に、「おまえたち、ここで、おみやげを全部買っておけ!財布とかカバンとか、誰に何をプレゼントするのかも……」を話しているのが聞こえてきました。
『この人たち、ここで100万は使うつもりなのか!』と、驚きというか、ため息というべきか…なんとも言えない気持ちになったというエピソードもありました。

 あっというまに時間がすぎ、出口から出てみると、もうバスの出発時刻です。急いで乗り込んでみれば、それらしいショッピングバッグを持った女性が、次から次へとしゃべりながら入ってきます。声色から思うに、いいものが見つかったようです。
『みんな、いっぱいブランドものを買ったんだ』と……。
動き出したバスの中で、『もう、ここには縁がないだろう』と、思っていたわたし。ところがところが!この日、またここに来ることになってしまったという話は、また後で…。

 恋人岬は、なんかなつかしい。
ふたむかし前に来たときは、ここは、島内観光コースの最初の訪問地でした。ショッピング以外の歴史的いわれのあるポイントは、前回と同じ。そんな中で、なぜか、恋人岬が、いちばん思い出に残っています。たぁだ、あの時は、伊豆の恋人岬から贈られたという恋人の鐘はなかったと思います。

 DFSを出発して、岬の展望台への有料チケットをバス車中で前売りしてもらい、…って、うまくできてるよなぁと思いながら、発券所に列ぶ行列の横をすり抜け、もぎりの係員に前売りチケットを見せて、一歩……、妻と二人、誘導されるままに、記念撮影ポイントへ。
そして「カシャリッ」
今回の島内観光での写真は、ヒルトンのチャペル前の集合写真と、恋人岬のツーショット写真の二枚だけ。
大きく引き延ばされて、きちんと二つ折りの見開き型のハードカバーに収まって、15ドル×2。v これでいいでしょ。ってね 笑。

 岬の突端の展望台から下を見下ろしてみれば、はるか下の方に、波が岸壁に打ち寄せてはくだける音。そして髪の毛がぐちゃぐちゃになってしまうような、強い海風。
「やっぱ、ここから飛び降りたら助からないよな」
「うん、そうよねぇ」
恋人岬の名前のいわれに興味のある方は、ポータルサイトで、検索してみてね。きっと見つかるでしょう…。

 こうして、展望台からハードカバーに収まった記念写真を手に持って出てきたわたしと妻。恋人の鐘を突きに行ったってことは、わざわざ書くまでもないか。割愛しましょう。v 「咽が渇いたね」
「時間まだあるし、売店に行ってみよう」
というわけで、缶入りペプシを買ってみました。
「うまいね。なんか日本のと違わないか?」
「ええ」
日本でも飲めるペプシコーラ。3ドルとちょと高かったけど、微妙な味わいの違いが意外な発券でした。

さあ、いよいよこのツアー最後のポイント、マイクロネシアンモールにとバスは向かっていきます。かつての島内観光では、危ないからと、現地の人のいるところには足を踏み入れないようにと注意を受け、島内観光のバスは、順番にホテルに寄っては、それぞれのお客を下ろして、しかもロビーまでガイドさんが、送ってさえくれました。
ところが、今回は、グアム最大級のショッピングセンターで、お客を下ろして、後は勝手に交通手段を使って自分たちのホテルに戻ってくださいとなっていました。変われば、変わるものです……。

 ショッピングモール入り口で、バスを降り、「Thank you, Alex.」と、バスドライバーさんに別れを告げ、「Thanks, Mr. Lei.」と、ガイドさんにも官舎の気持ちを伝えます。マイクロネシアン・モールに入った観光ご一行、それぞれに、遅いお昼を求めて歩いて行きます。
2Fへのエレベータに乗って時計を見れば、午後2時を少し過ぎていました。どこに行こうかと2階フロアに踏み出してまもなく、わたしと妻の周りには誰もいなくなっていることに気がつきました。みんなそれぞれに向かったということです。

 とにかくお腹がへりました。何か食べたい」
「なにがあるのかしら…」
「まちがっても日本食はノーサンキューといきたいな」
「そうねぇ」
と、歩いていると、
「バーガーキングはどう?」
「バーガーキングねぇ。うん、それもいいんじゃないか」
カウンターについて、メニューを前に…
「なににする?」
「なにがあるの?」
「ねぇ、Angus steak burgerってなにかしら」
「えっ?アンガスステーキバーガー?なんだろ?分からない。それでも、食べてみよう。それにするよ」
「わたしは、ダブルのにしようかな。飲み物は?」
「なにがある?」
「オレンジジュースに、コーラ、ダイエットペプシに…」
「それ!ダイエットペプシ」
「わたしはオレンジジュース」
「ラージでいい?」
「ラージだって?オレはいいけど、ほんとにそれでいいのか?」
「だって、ふつうサイズって書いてあるし…」
「おいおい…」
「じゃあ、注文するよ。Angus steak burger. One. diet Pepsi, large one.」
そうして、カウンターに出てきたものを見て、「うわぁ、こんなでかいの飲めないかも…」
「だろぉ、だからラージでいいのって聞いたじゃないか」
「だって、ふつうサイズって…」
「だから、それって、日本人のじゃないって…」
「あっそうか…」

 バーガーキングは、いつか妻が食べてみたいと思っていたお店。彼女が学生の頃に、お世話になったバーガーショップの社長の Yさん。その人が、アメリカでバーガーの修行をしたのがバーガーキング。そして、日本人にも、ぜひこんなうまいバーガーを!と、始めたお店で、バイトをさせてもらったことがあったのです。
そのお店、バブルのあおりをくって、10年ほど前に店を閉めてしまいましたが、わたしもかつて、その店のバーガーファンだった。よく、昼休みに職場を抜けて、20分も歩いて食べに行ったものです……。
バーガーキングは、妻の思い出につながる大切なお店。だからぜひ、食べてみたかったのです。
わたしが食べたのは、アンガスステーキバーガー。果たしてangusとはいったい何であるか?それにしても、日本で食べるのとは、サイズが違う。特に子供だましのおもちゃのおまけを売りにしてやっているのとは、桁が違う。もちろん、味わいも比較にならない。とはいっても、食べ物の好き嫌いは、思いこみも大きい。わたしは、グルメではないので、これ以上書くとぼろが出ます 笑。
でかいバーガーと、これまたいっぱいのフライドポテト。それにラージサイズのペプシを飲み終えてみると、あれほどすいていたお腹も、満たされた感ありありになりました。妻はと見ると、どうにも 1リットルほどもありそうなジュースに手こずっているようです。だからといって、飲みきれないドリンクをもらうほど、わたしも余裕がないなって感じ。v 「ごちそうさまにしようか」
「うん、もうわたし、無理だわ」
こうして、アイランドパスを見せれば無料で乗れるショッピングバスに乗りさえすれば、ちゃんとホテルまで送ってもらえる。…はずでした…。

「DFSへもう一回戻らなければ」
「どうやって?」
「さあ、分からない。けど、インフォメーション・カウンターで聞いてみよう。どこにある?連れ照ってよ」
「じゃあ、あなた聞いて」
こうして、バーガーを堪能したわたしたち、一階フロアに降りて、出口に向かってまっしぐら。

「ここ、案内みたい」
「あっそ。ええっと、スキューズミー」
「はい、なんでございましょう」
「あっ!ええっと、デューティーフリーへ行きたいのだけど…」
「はい、それではタクシーをお呼びしましょう」
「ええ、そうしてください」
「DFSへのタクシーは、無料ですので、大丈夫ですよ。しばらくお待ちください」
「はぁ、はい、お願いします」
 そんなわけで、ブランドショップばかりで、全然おもしろくなかったDFSへ、また行くことになったのでした。
えっ!なんで戻ったのか?
はいはい、オプショナル・ツアーの島内観光の支払いをその日の午後 3時までに、それもDFSでしなければいけなかったのに、うっかり忘れてたからでした。

 しかし、どこにそんなツアーデスクがあったのか?それなりに、きちんと回ってみたはず。妻は完全に途方にくれてしまっています。わたしは、見栄もしないものが見えるなんてパワーは持ち合わせていないし……。
「なぁ、どこか、分かりにくい通路があるとか、ドアがあって、その向こうだとかってことないかな」
「ええ、そんなんなかったよぉ」
そうして、同じところを行ったりきたりを繰り返しているうちに…
「あれ、こんなところにエスカレータがある」
「やっぱ、あったんだ」
「だって、こんなの分からないわよぉ〜〜」

『さあ、これで、気分すっきり。もう時間も何も気にするものはなくなった』
そう思ったら、なんかものすごく気持ちがらく。そう言うと、妻もそうだって言うから、ただホテルに帰るのも味気ないので、もう一度、DFS探検のやり直し!です。
「なんからくだよなぁ」
「ええ」
「時間限られると、あんまり物を吟味しないで、勢いっていうかな、今買わなきゃ!と、つい買ってしまうってことありそうだよね」
「うん」
「もうどこにどんなお店があるって分かってるわけだし、さっき、時間なくて、全然きちんと見ることのできなかった、あのお店に行ってみよう」

 ホントは、わたしとしては、1ギガのメモリーが格安であるとか、ちょっとレアな音源ボードがあったとか、すんげぇCPUが、免税価格で投げ売り状態だったのほうが、全然ハッピィなんですけどね、そんなお店は幻ほどもありませんでした 笑。
あとは、わたしと妻の共通の… といえば…。
「Welcome.」
「Hi!」
「What's this? これなに?」
「coral. 珊瑚。pink coral, red coral.」
「へぇ、ピンク珊瑚に、赤珊瑚ねぇ。ブローチなの?それともペンダントトップ?」
「Pendant.」
「そぅ」

 ヒルトンホテルの中にもジュエリーショップがありました。ここDFSにもティファニーをはじめ宝飾店がありまして、けど、なんか…なんだよね。石はダイヤばかり、たまにルビーかサファイヤがちょこっとあるぐらい。石座・リングやチェーンの類は、なんでかゴールドばかり。でなければ、ダイヤをあしらった、どえりゃぁ高い腕時計ばかりがこれでもかと、ショーウィンドーの中に所狭しと置いてあります。
『高けりゃいいってもんじゃないよなぁ』と、いちおう負け惜しみも言いたくなります。そんな中で、ちょっとお手軽価格で、いいのが見つかりました。
Maui Divers' Jewlery
 妻へのニューイヤーズ・プレゼントもできたし、めでたしめでたし。夕方に向けて、無料のショッピングバスで、ホテルへと戻っていったのでした。

 ちなみに、これを書いている今、マウイダイバーズ・ジュエリーのHPのオンラインショップで、これかな?を見ているのですが、あまり詳しいことは書いてないね。たぶん画像で見せているのでしょう。それでも、おおよその品揃えは分かりました。

 今回の旅行は、三泊四日。 とはいっても、一日目は、着いてみたら夕方。そして四日目は、早朝、未明のうちにチェックアウトなので、実のところは、丸二日。

 グアムに着いた翌日は、島内観光を楽しみました。そのオプショナルツアーが、現地の大型ショッピングセンターのマイクロネシアン・モールで自由解散となって、さてこれからどうしよう…とふつうなら悩むところ、うっかり島内観光の支払いを忘れたということから、またDFS(免税店)に戻ることとなって、思わぬ出会いがあったっていうストーリーを書きました。

 日本を出る前、免税店でおみやげを求める気持ちがありました。かつてグアムに来たときにも、島内観光をしまして、そのときも途中で免税店に立ち寄りました。そのときのお店は、小さなお店で、もっとアットホームな感じがして、ブランド品もいくらかはあったのかもしれないけど、全体にはもそっと素朴だった…、いや、素朴としかいいようのないお店が多かったと思います。
今回、免税店は、変わりに変わって大型集合店舗になっていました。出店しているお店も”グアムで”の必然性のきわめて薄いお店ばかりだと個人的には思うそんな店が居並ぶ片隅に、チョコなどの、ずっとお手軽な品を売っているお店があったにはありました。けど、今回は、DFSでいろいろと買い求めても、それをホテルの部屋まで持ち帰る手間暇を考えると、多少高くても、右から左っぽいところで、ホテルのショッピングで済ましちゃおうと決めたのです。
もともと旅先でそれほどおみやげを買わないのですが、今回は、いちおう年末のあわただしい仕事をお休みさせていただいたので、やっぱそれなりに気持ちを表現しておいたほうがいいかなで……マカダミアナッツ入りチョコを何箱も買い求めておいたのでした。

 ホテルに戻りたかったら、ショッピングバスが無料でお手軽だと聞いていました。そこで、DFSからは、それを利用してみました。
乗ってみると、なんと壁がない!
台車に屋根だけが乗っているだけの実に風通しのいい、“開けっぴろげ”バスだったのです。座席も、外に足を向けて座るように置かれたベンチがあるだけで、“オープンスペース”そのもの。
ベンチ式のシートは電車バスでは、中に向かって、互いに面と面をつき合わすなんてのが、当たり前と思っていました。日本の常識、必ずしも……でしょうかね、これ。
あっそうそう、グアムでは、クルマは右側通行の左ハンドル。アメリカ本土と同じだね。だから、歩道で待っていると、バスは、向かって左から来ます。日本と逆。なんか、バス乗り場で待っていると、ふと右からバスは来るのかなと、そちらに耳を澄ましてしまう。癖というのは、こんな一瞬の感覚でさえ、あれ?と混乱してしまいます。
こうして来たバスに乗れば、壁がないために外からの音、だいたいはバスのエンジン音が発車とともに、グゥーワーンと響き渡ります。そこにもってきて、車内には、アップテンポの音楽が、そのエンジン音に負けじとデカイ音量でかかっています。
グゥーワァーンに、ジャンジャカジャンジャカ、グゥーワワワーン、ドンチャカドンチャカ、グワングワングワンワワワ、ギンギンチャラチャラドコドコドコドコドドドドドン!!
「座る?」
「えっ?何!」
「椅子に座る?」
「あぁ、椅子ね。分かった」
「はい、ここ椅子」
手を誘導してもらうが、それが背もたれで、その向こう側、つまり窓?際に回り込んで、外に向かって座るのだと分かるのに、一瞬のとまどいがあった。もちろん、妻が何か言っていたと思うが、あんなやかましいところでは、何を言っているのか、さっぱり分からなかったのです。
こういった、これまで体験したこともないような…、想定外なことがあっても、いかに早く理解し、対応できるかが、旅には求められるなぁと、今さらながら思ったものです。目が見えなければ、なみの人以上に柔軟性がいるなと…。ちょっと自己嫌悪だったりするが、だからどうした!とさっさと開き直るのがわたしの良いところ 笑。

 この日、ホテルに戻り、ちょっとくつろいだ後、やっぱり夜をどうしようかと、…。タクシーでも利用して、外に食べに行くのもいいかもしれないが、なかなかそこまでの気持ちにはなれませんでした。そこで、朝、恋人岬をバックに集合写真を撮った、あのチャペルのあるところに行ってみようと、ホテルの横を回り込んで行ってみることにしたのです。
ヒルトンは、グアム島の北に面したタモン湾の西の果ての岬の突端にあるホテル…だと思っています。その岬の突端に向かっての道路を“ヒルトン・ロード”と言うようで、その道沿い、その岬そのものが、プライベートなのでしょう。
ホテルを出て、横に回り込んでいけば、舗装道路から芝生のフィールドがあり、そこを突き抜けて歩いていけば、波の音がザザと聞こえてきます。足下は芝生から、砂利ふうに変わり、さらに波の音が近づいてきます。そろそろ岬の尖端なのでしょう。周りには種々の木々があり、グアム自生の熱帯樹もあるのかもしれません。
「パパイヤよ」と妻が言うので、らしき方向に手を伸ばしてみれば、たしかに、重量感のある果実がありました。

 岬の突端を歩道に沿ってぐるり歩いていくうちに、どんどん周りが暗くなってきます。もう日没も間近って時間。もしかして、きれいなサンセットが見られるかなと思って熱帯樹の中の歩道をどこにたどり着くかを楽しみに、二人でのんびり歩きます。
けっきょく、きれいなサンセットは現れませんでした。それでも年末の晦日に、半袖で、こんなふうにのんびりしていられることに、思わず感謝!です。

 もうすっかり日が暮れてしまいました。
ふと日本にいる子供たちはどうしているかと思い、メールを出してみたくなりました。グアムで役に立たないケータイは持ってきませんでしたから、ホテルに完備されているという、インターネットのできる端末を使わせてもらおうと、戻ることにしました。
ホテルに入ってまもなく、イーセンターという部屋があることが分かり……、
「あれ?開かない」
「鍵がかかってるわ」
そこでフロントに聞いてみると、「1時間5ドル」とのことでした。それでもしょうがないかなと…。と思ったら、日本語表示はできるけど、日本語変換はできないのだそうです。ローマ字か英語で書くしかないってことで、 5ドルの価値ないねってことにしちゃったのでした。日本語表示ができるだけでもましだとは今なら思うけど…。

 ヒルトンには、バーがありました。地元でいつも行くようなバーを期待していましたが、プールサイド・バーでした。
わたしは、個人的には、静かな雰囲気が好みで、抑えめのBGMと、バーテンダーさんとカウンター越しに語り合えるぐらいがちょうどいいと思っています。

 オープンテラスのプールサイド・バー、“ツリー・バー”は、海風が適度に入ってきて、フロアに、ビーチやプールから直接入って来ることができて、ちょっと一杯なんて、なかなか気がきいています。ただねぇ、ちょこっと音楽がねぇ。BGMにしては、ちょいと音量デカイよね。

 さて、夕食ついでにツリーバーに出かけてみたら、すものごい音響が外まで響いていました。それだけで、ちょっと、いえ、どんびきしそうになりました。それでもどうにか無理に気持ちを立て直し、入ってみると、フロアは人であふれかえっています。妻とやっと見つけたカウンター席に座りました。ところが、耳が全く役に立ちません。バーは、バンドの生演奏と、お客のおしゃべりの騒音に埋め尽くされています。さっき。そう、岬の庭園を散歩に出る前に立ち寄ったときとは大違いです。
今は、妻が横にいることさえ分からないのです。ウェイターがきたかどうかなんて、まるっきりみたいな状態。そこで、手で横にいる妻を捜し、大声で…
「何にする?」
「えぇ?」
「だからぁ!」
「あのねぇ!注文をききに来てる!」
「マルガリータ!」
「他には?」
「なんだって!」

 バンドが、ポップな音楽をガンガンビンビンやっていて、それに負けじとみんな大声でしゃべっている。というより、叫んで、がなって、怒鳴って、ありったけのエネルギーを口から発射しています。
これを書いている今、たしかマルガリータあたりをオーダーしたはずですが、ほんとは何だったのか?その痕飲んだものは?そしていったい何を食べたのか?あまりにもうるさくて、騒がしくて、居心地が悪くて、さっさと出て行きたい!それしかなかったのでした。

 この日、岬のガーデンを散策に行く前に、下見ついでに、ツリーバーで一杯やりました。この時は、少し音楽のボリュームあるけど、『まぁいいか』ぐらいでした。まさか、夜になると、こんなバカ騒ぎになっているとは思ってもいませんでした。明日の夜。大晦日の夜に、カウントダウンパーティーが予定されているのだとか……。頼まれても御免被りたいかぎりです。

 ホテルの向こう側、海岸線は、ホテル専用。プライベートビーチ。部屋で水着に着替え、そのままエレベータで降りていけばいい。
12月31日の午前。通路を通って外に出てみれば、ビーチへの一本道があるだけ。わたしたちは、ビーチパラソルとビーチチェアが、いくつか並んでいる内の、とりあえず空いているところに、バスタオルと、脱いだTシャツを置いて、海へと向かいました。入ってみると、案外深い。数メートルも進むと、あっという間に胸まで水につかってしまいます。もう少し、遠浅の珊瑚礁の海を思い描いていたものですが、それは、タモン湾のビーチでのことになるだろう。ここは、岬の突端。湾と、外海との境目。遠浅にはなりようもないようです。
それにしても足にまとわりつく小さな粒々。それは、砂ではなく、どれも珊瑚のくだけたもの。一歩歩くごとに、珊瑚の粒が舞い上がり、足にまとわりついてきます。裸足では危ないと知ってはいます。しかし、足の裏とサンダルの間や、足の指の間に入ってくる珊瑚の粒はどうしたものかと思う。そのうちどうにかしたくなってきて、ちょいと水の中で足をバタバタして珊瑚の粒が出ていくようにしていると、スルリとサンダルが抜けて…。プカリと浮かんでくるところを手探りでキャッチして、ほいとばかりに爪先につっこんでやるを何回やっただろう。手探りで見つからなくて、妻に探してもらうも何度あったことか 笑。

 バッシャーン!
「わぁ、やられたぁ」
バッシャーン!
「ひぇぇ〜、もう一発きた!…うわ!ビーチサンダルが脱げたぁ。どこどこ…、あ、あった」
それにしてもけっこう波が荒い。大きな波をまともに受けてはたいへんだ。頭から水をぶっかぶってしまいます。それで、タイミングを合わせて波のてっぺんに向かってジャンプ。すると、足からビーチサンダルが抜けて…。プカリと浮かんでくるところを手探りでキャッチして、ほいとばかりに爪先につっこんでやるを何回やっただろう 笑。

「ねぇ、向こうのほうに行ってみない?」
「向こうって?」
「ホテルの手前のところ、もっと波が穏やかなのよ」
「ふぅん、じゃ、行ってみようか」
こうして、珊瑚でできた砂と、岩と石でできた浅瀬を注意深く、足を傷つけないように、転がらないようにと、注意深く足を運んで、5分ほどすると、確かに……、
「うん、たしかに波が穏やかだね」
「ねぇ、これ珊瑚の塊よね」
「どれどれ?ああ、たしかにそうみたいだ」
「持って帰ってもいいかしら 笑」
「だめだよ、きっと税関で没収されちゃうよ」
「だってぇ」

 イパオビーチ。
ヒルトンと、PIC(そういう名前のホテル)の間にあるビーチ。わたしたちは、そこまで、波打ち際を歩いて行きました。きっとちょっとだけ湾内に入ったからでしょう、波は穏やかになりました。それに、ちょっとだけ遠浅になったのかもしれません。
「なぁ、どこかあのあたりに、島はないか?」
「ないわねぇ」
「そうか、もうないんだな」

 以前に泊まったホテルは、第一ホテル。そこは、まるっきりタモン湾の中ほどに位置していて、ホテルの目の前にビーチがあって、ほんとに遠浅の珊瑚礁の海でした。
グアム第一ホテルは、できたらもう一度とも考えていました。けど、旅行予約のときに、まだリニュアル改装中となっていました。後で調べてみたところ、フィエスタ・リゾート・グアムとなって12/22にリニューアルオープンと分かったのです。
あのとき、ビーチの沖合100mほどのところにある小さな小さな島に歩いて渡って行きました。そのとき、ビーチサンダル越しにぐにゃりとした感触があって、見てもらうと、長さ2〜30cmもあろうかという大ナマコだったのでした。
はじめ『気持ちわるぅ〜』と鳥肌が立ちましたが、いいかげん、そこかしこにゴロゴロいて、踏み慣れてくると、『あれ、またか』になっていきました。足元にザリザリと珊瑚の砂を踏み、たまにグニャリのアクセントつきで、海面に突き出た小島まで暖かい海を楽しんだことが、ふと思い出されます。
「そうかぁ、もうあの島はないのか…」
「満潮なのかしら…」
「どうかな。水没してしまったのかも?それに、あれほどいたナマコもまったくいないようだし…。やっぱり変わってしまったのかな」
「ねぇ、あの人、何か言ってる」
「えぇ?」
「波が荒いから危ないって言っているのかしら?」
「かもね」
ビーチに上がってみると、やっぱり管理人さんみたいだった。聞いた内容は、はっきりとは覚えていないけど、英語のやりとりで、波が高いから危険だということだった。
実際、この日、湾内のいたるところで、放送がかかっていました。内容は、危険水域に出てはいけないというものがほとんどだったと思います。
ということで、Uターン!ヒルトンビーチに向かって、戻ることにしました。たしかに、波は荒かったし、流れも強いなって思いました。そういえば少し沖に出たところにロープが張ってあって、「drop off」と……と、妻が読んでくれました。
drop off. 海底が、急に落ち込んで断崖になっているの意味です。日本語では「深み」とでも訳すのかな。

 それにしても、12月は31日の昼に、海に入って遊んでいるってのは、なんかうれしい。今頃、日本にいれば、家にいれば、きっとスコップ持って雪かきに疲れ果てているだろうに… 笑。

「ねえ、もう上がる?」
「いや、まだだ。まだ焼けてない」
「皮がむけるまで焼くつもり?」
「このぐらいじゃ、それほどは焼けないだろうな。でもさ、グアムに行ったってのに、真っ白で帰ったら、おかしいじゃないか 笑」
「ふうーん。皮をむいてあげる」
「だからむけないってば 笑」
「ねえ、ジャグジーに行ってみない?」
「そうだな。じゃ、行こうか」

ビーチからプールサイドに来てみると、ビーチよりよほどたくさんの人たちがいて、楽しそうにしています。プールサイドで本を読むってのは、なにかトレンディーなんでしょうか?そうやって、プールサイドの人をよけながら歩いていくうちに、見つけましたよ。ジャグジー。広さは、畳3畳ぐらいの温水プール。深さ1mほどで、入ってみると、ちょど体温より高いかなぐらいの水温です。
ほどよく暖まったところで、また海に……。

 今回、プールには入りませんでした。わけは、海を感じたかったということとがプラスの動機、マイナスの動機は、あのプール独特のにおい。次亜塩素酸ナトリウムのにおいがねぇ…。殺菌(有効な細菌は、大腸菌、ブドウ球菌、サルモネラ菌、チフス菌など)のために入れているのだと思います。何か法令があり、それに従っているのでしょう。ちょとにおいが強めかなぁでした。

「そろそろ何か食べたいね」
「食べにいく?」
「行こう!」

 昨夜騒音のるつぼと化していたプールサイド・バーに行ってみれば、何事もなかったかのように、ちょと大きめのBGMのかかるただのプールサイド・バーに戻っていました。
「Please. Kimchi ramen,one. Curry,one.」
そうなのだ。メニューに、キムチラーメンとカレーがあったので、食べてみたいと思っていたのでした。
待つことしばし。来た来た。うまそうだねぇ。
Kimchi ramen.器はラーメンどんぶり。それにラーメンが入っていて、キムチが乗っています。食べてみれば、やっぱりラーメン。おいしかった。
Curry.いわゆるカレーライスというよりは、ビーフのカレー煮といったほうがベター。ご飯は、インディカ米。日本の丸い米粒とは違います。細長いパラパラとした感触。
わたしは、ナイフとフォークで、ラーメンを。妻は、ナイフとフォーク&スプーンでカレーです。

 海を楽しんだわたしたち、一度部屋に戻って一休み。そして昼下がり……。

「ここにもないの?」
「うん」
「サンダルだけど、アンクルストラップのあるやつね。それでいて、あなたの足のサイズに合うものでしょ」
「もう少し探してみてもいい?」
「いいよ。つき合うよ」

 グゥオォォーン、ドンチキドンチキウオウオウオォー、ブルブルルーン、ドコドコドコドコジャジャジャジャジャジャジャーンアアアー、グオンオンオーン、「Micronesian mall!」と、ドライバーの声。ブーーンルルルルル……。
吹きっさらしのショッピングバスで、また昨日島内観光のラストの訪問地であるマイクロネシアン・モールにきました。
それにしても、バスのエンジン音にも、車内の大音響の音楽にも負けじと張り上げるドライバーの声って、なんかいい。日本なら、絶対にマイク握って、「次はどこー」と、すまして言うところだよ。
もともとは、あの恋人岬にもう一度行ってみようと、ホテルを出て、とりあえずの乗り継ぎ地点のショッピングモールに着いたところで、ついでに、なんとなく足に合わなかった妻のサンダルを新調しようと、ショッピングモールの中を靴屋を求めて、……。
なぜか、アンクルストラップのあるサンダルはなかったけど、それなりのがあったので、じゃぁそれでいこうってことになりました。

 この日、残念なことに恋人岬へは行けなかったのです。恋人岬行きの終バスの時刻を過ぎていたことがバス乗り場で判ったからです。このままホテルに戻るのもつまらないので、もう一度ショッピングモールに入って、このサイダから改めてどんなお店があるかをウィンドーショッピングしてみようってことにしたのでした。

 中は縦横にクロスした交差点を中心に、東西南北のストリート沿いにお店が建ち並ぶといった作りになっています。昨日は、ランチを食べただけでした。今日は、靴屋しか見ていません。改めてゆっくりと歩いてみると、いろいろなお店があることが分かっておもしろい。そうしてウィンドーショッピングで、見つけたお手軽雰囲気のアクセサリーのお店。
 妻は珊瑚でできた小さなペンダントトップ。わたしは、きれいな緑色した翡翠のブレスレット。お値段400ドル。そのときのレートで、4800円ぐらいかな。

 夕方近く、偶然にも、来たときと同じ運転手のショッピングバスに乗りました。エンジン音と音楽に負けじと叫ぶ「Hilton hotel!」の運転手の声を聞いて、ベンチシートから立って、降りてみれば、外はそろそろ夕暮れ。明日早朝未明にここをたつんだなと思うと、ちょっとセンチメンタルな気持ちに……。

 その日の夜はビッフェ形式のディナーを楽しみ、部屋に戻りベッドに横になります。時間はもうすぐニューイヤー。外からドーン!シューン ドーン!とカウントダウンパーティーの花火を打ち上げる音が… でもわたしはもう半分夢の中。
ドーン!ヒューン ドーン! ドーン、ヒューン ドーン!
『またわたしたちを呼んでおくれよ……お願いだ……おやすみグアム……』