ブラインドスキー 2011年 1月30日
放送大学 2011年 4月 4日
前期単位認定試験 2011年 7月31日
オープンキャンパス 2011年 8月 6日
太陽光発電 2011年 8月 9日
「健康のために運動をしてください」と、医師に言われて始めたウォーキング。もちろん、わたし1人ではたいして歩けないので、一緒に運動を薦められた妻と、夕食の後、お天気が良ければ歩いています。それが、昨年9月末よりクマが出るようになりました。夕方から早朝は危険です。そのため、ウォーキングは、それ以来、お天気任せの土日の日中だけ、もう少し運動する手はないかな〜と、思いながら、とうとう年を越してしまいました。
昨年暮れ、クマ出没警報は終わりました。これで、ウィークデイのウォーキングが再開できることになります。しかし、冬期間は、あまりお天気良くない日多いのです。そういうことで、やっぱり春まで待つしかないかなぁ〜です。
今月まもなく、ブラインドスキーの講習会に、お誘いのメールが届きました。
2004年、2005年に新潟県の越後湯沢でスキーをした以外は、地元で滑ってきています。今回は一昨年1月24日以来。久しぶりです。
足腰大丈夫かな〜と思っていたら、知人から「古いけど、ルームウォーカーいらない?」との話が舞い込んできました。渡りに船!すぐにそれをいただいたのです。
それは、幅40cmに長さ90cmほどのベルトの上を歩くというものです。ベルトは緩い傾斜があります。その上に乗れば、身体の重さで自然にベルトが後ろ、つまり傾斜した板の上を滑っていくはず……。だったのですが、やはり中古品。滑りません。
そこで、可動部に自転車オイルをさし、次に、ベルトと傾斜板の間には、シリコンオイルをごく少量塗り拡げてみました。そうしましたら、動きました。まだ幾分滑りの悪さもありますが、とりあえず足を後ろに蹴ればベルトは動きます。
やってみて分かったのですが、軸足を後ろに蹴るというのは、意外にきつかったのです。最初の頃はたった500歩ぐらいでけっこうばてました。それでも、毎日続けていくうちに、だんだんコツもつかめてきましたし、力もついてきたのでしょう、5000歩がクリアできるようになりました。
30日は、朝6時。天気予報では、この冬第一級の寒波で、大雪だとか……。確かに窓の内側が凍り付いています。玄関から外に出てみると、しっかり積雪もあります。昨夜から降り積もった30cmほどの雪をスコップでかいて、クルマまでの道をこしらえます。
次に、クルマにわたしのと妻のスキーを積み込みます……、一昨年大きなクルマから小さなクルマに替えたので、ちょっと工夫がいりました。後部座席の背もたれを倒して、助手席を名医パイ前に出す必要があったのです。
そうして、山へと出発したのです。
目的地に着いたのは集合予定時刻の8時半少し前。しかしというか、やっぱりというか、ほとんど誰も来ていません。道路は圧雪と凍結のつるつるコンディションだし、雪は休み亡く降り続いています。それを思えば、遅れるのは当たり前かな〜です。それでも、一人また一人到着、また到着。
ブラインドスキーの開会式は、予定の9時にできませんでしたが、集まり次第すぐ、それぞれがインストラクターさんとペアリングです。
スキー講習は、それぞれのレベルに応じて行われます。およそ初級、中級、上級……、ここでの上級というのは、スキーの大会に出られるようなという意味ではありませんから、そのあたりよろしくです……、に別れて行われます。
インストラクターさんには、自分のレベルを自己申告します。その上で、実際に滑ってみてから、その人の“トレーニング”を受けるのです。
わたしの担当になったインストラクターさん、わたしに何も聞かず、「それじゃあ、行きましょうか」と目の前のリフト乗り場へと誘導を始めました。一瞬、えっ?と思いましたが、さっさと板を履いて歩きましたから、大丈夫と思われたのでしょう。
ちなみにわたしについてくれたインストラクターさん、年齢を聞いてびっくり!なんと71歳で、今年72歳になるのだとか。しかもスキーを初めて履いたのは、52歳。それ以来スキーが面白くなって、とうとうスキーインストラクターの資格を取ったと言うのです。ほとほと感心してしまいました。
リフトで上がってまず、インストラクターさんが、どの程度できるか見たいと言われます。
これまで、湯沢では、インストラクターさんが前を滑り、わたしがその滑走音についていくスキーをしてきました。が、地元では、わたしが先に滑って、後ろから方向や「とまれ」など指示してもらう方法が多かったので、今回もそれにしてもらいました。
これは、好みではなく、ゲレンデの混み具合で決まります。湯沢のような有名なスキー場は、混みます。視覚障害者が先に行くなんて危なくてしかたがありません。だから、先に滑ってもらい、露払いされたコースをついていくとなるのです。今回は、田舎です。大雪の警報も重なり、ゲレンデはまばらです。そういうわけです。
ではと、とりあえずのボーゲンで斜面に降ります。身体の切れいまいち?なんか身体が固いのです。転びはしませんが、なんか力みありありです。
2本目も、力みがあります。ただ、斜面に身体がついていくようになってきて、少しましかなぁです。
3本目は、ようやく力みが取れてきました。ほどよく疲れていたこともプラスに作用したと思います。斜面にうまく乗れました。
そして4本目。滑りをボーゲンから、パラレルに変え、スピードに乗って斜面に向かい、カービングスキーらしい滑りができました。
「どうです?今度はあちらのリフトで上がってみませんか」と、インストラクターさん。
「あちらですか?」と、わたし。
「ええ、」と、インストラクターさん。
「あれって、頂上へ行くやつですよね」と、妻。(←正しくは頂上の少し手前)
「はい。どうですか」と、インストラクターさん。
「行ってみたら」と、妻。
わたしとインストラクターさんの後をついてきている妻が、そういうことを言うし、わたしもチャレンジしたくなって、つい「ええ、では行ってみましょう」と、言ってしまいました。
上がってみれば、そこは、まさに上級者の斜面。
後で調べてみると、最大斜度は35度。わたしが、それまで滑っていたゲレンデは、最大25度。この10度の差は大きい。そして、圧雪者によるゲレンデ作りはまったくありません。積もった雪は、まさにパウダーそのもの。
とりあえず降りてみようとボーゲンで下りに入ってみました。
『ボーゲンなのに、スピードを殺せない。なぜかどんどん速くなっていく!』
そう思うまもなくスキーの板が、速度が加わるほどに、暴れ始めます。
インストラクターさんの「右、左、右、左」の指示が聞こえます。それに答えようと奮闘しますがスキーのコントロールが徐々に乱れてきます。
と、その瞬間、ズンッ!と下から強烈な圧力が加わり、あっというまに体が横斜めに振られ、気がついたら斜面を雪まみれになって落ちていくのを感じます。
ようやくとまった所で、立ち上がり、ボーゲンで滑り出します。右、左、右、左……、身体がスピードに乗れていないことに気がつきます。板のコントロールが負けている。そう思った瞬間また体が振り切られてしまう。
「こういう斜面があと300メートルほど続きますよ」と、インストラクターさん。
「分かりました」と、わたし。
「では行きましょう」の声に応えて、滑り出します。
右!左!右!左!
『もうあかん!スピードを殺せない。足に力が入らない』そう思った。
とそのとき、ズンッと突き上げられ、ふわっと足下に手応えがなくなった!
次の瞬間、顔面から雪の中に突っ込んだ。しかし、勢いはそのままわたしを転がし続け、ようやく止まったときには、どっちが上だか下だか一瞬分からない。さらに立ち上がろうと足に力を入れてみたときに初めてスキー板が両方ともなくなっていることに気がついたのでした。
「そこ動かないで」と、インストラクターさんの声。
あっと思い、体を起こそうとした、そのとたん、ズリズリと滑落が始まってしまった。
ようやく止まったときには、上の方で、衝撃音がした。が、まもなくインストラクターさんに衝突したスキーヤーもろともわたしに衝突し、さらに滑落。
『とにかくまずは滑落を止めねば』と、体制を決めて、……どれほど落ちたのだろう?ようやくとまりました。そこで、手渡されたスキーを履いて、また、スキーを斜面に向けて滑り始めます。
右ターン、左ターン、右ターン、左ターン...、あの落ちていくような感触がなくなりました。
「止まって!」のインストラクターさんの声。 「ここから先は、もう滑りなれているでしょう」
『ああ、そうか、リフトの降り口に着たんだぁ』と、自然に笑みがこぼれているわたしがそこにいたのでした。
11時半から午後1時までの90分。カレーを二杯食べて、コーヒーを一杯飲んで、パンパンに張った足の筋肉のストレッチをして「では!」と、午後のゲレンデに向かいました。
インストラクターさん、「きょうはもう頂上は無理ですね」と、ズバリ切り出してきます。
「はい」と、答えるしかありませんでした。
「でも、よかったでしょう?」と、インストラクターさん。
「はい、とてもいい経験をしました。またトライしたいです」と、わたしは、これを書いている今でもそう思っているのでした。
午後からは、第一ゲレンデ。つまり朝と同じ、圧雪者できれいに仕上げられている斜面です。滑ってみれば、体は午前のスキーの憑かれが残っているのに、動きは良いのです。
リフトから降りてスタンバイ、ゴー。
「左... 右... 左... 右...」
午前と違い、スキーはほとんどパラレル。速度はぐんぐん上がっていく。風を切る音が耳元でゴーゴー唸り出す。後ろからのインストラクターさんの声が聞こえづらい。それでも速度は落とさない。けど、あの頂上からのダウンヒルと比べればどうということのない斜面。おもしろいほどスキーがコントロールできます。
『午後は5本がいいとこかな』などと、体の疲れ具合から想像を巡らせていた割には、あっというまに8本いっちゃいました 笑。『まだまだ全然いける』と思いましたが、時間は閉会の10分前。
「きょうは、ここまでですね」の、インストラクターさんの言葉に「ええ、そうですね」と、わたし。
昨年放送大学、地元の学習センターで入学の手続きの話を聞き、必要書類をまとめて送りました。まもなく、入学許可の案内が届き、そこにはわたしの学生番号も記載されていました。以後、わたしは、その番号がIDとなり、個人が識別されることになります。なお、学生種別を事前に指定しなければなりません。わたしは全科履修生、つまり四年制大学の学生を、そして卒業で学位取得を目指すことにしたのです。
学部は、教養学部。放送大学にある学部は、これだけです。この学部の中に、いくつかコースがあり、脇目も振らず心理と教育コースを選びました。これが心理学を学ぶための唯一のコースだからです。
2月。放送大学のホームページ、IDとパスワードでログインします。そして4月から学ぶ科目を選びます。単純には、卒業のために、124単位を習得すればいいのですから、四年で卒業を考えているのだから、一年に31単位をクリアすれば良いわけです。1科目2単位なのですから、一年に15.5科目となります。それを前期後期で割れば、各学期に取る科目は、7.75。ざっくりと8科目ずつやっていけば良いと思ったのですね。そうすれば、四年目の後期は、6科目になりますもの 笑。
授業は基本的に、放送授業、つまりテレビかラジオで配信されています。それを見る、聞くして、教科書と合わせて学びます。ただし、全科履修生はこれだけではだめで、面接授業も20単位クリアしなければなりません。面接授業とは、各都道府県にある学習センターで行われる実際の授業のことです。1授業、二日で行われ、出席して1単位となります。この分を差し引くと、放送授業分は、104となり、各学期で習得する科目数は、6.5となります。
そう、1科目減として良いのですが、わたしは、飛ばしていこう!と、8科目を申請したのです。
ところが、だんだん『できるだろうか?』と、不安になってきました。一週間は、七日です。となると、8だと、一つ余ります。そう思っているうちに、科目申請の締め切りが迫ってきました。
『どうしよう?やっぱ、一つ減らして7科目にすれば、毎日一つずつ。こちらの方が良くないか?』
迷ったあげく、申請締め切り直前に一つ減らしたのでした 笑。
放送大学の授業はテレビかラジオ。それを受信して視聴しなければなりません。科目の授業は、1科目90分、つまりどこの大学でも行われているものと同じ長さです。ところが放送されている時間が、ふつうの大学と全然異なります。朝は6時からで、そして深夜にまで及んでいるのです。このことは、放送大学ならではのこと。これが月曜から日曜までの毎日です。
放送は、全部ケーブルテレビで受信できるので、それはそれでいいのですが、日中の放送を録画、もしくは録音しておかなければなりません。なので、そのための設備を用意したのです。
でも、仕事から帰ってきてから、それを見る……聞くは、厳しいものとなりました。ただ漫然と聞いていると、あっという間に睡魔に乗っ取られてしまうのです。原因は、分かっています。聞いていてすぐに分からなくなってしまうからです。わたしの頭は、先生の言われることについて行けないのです。昔風に言えば、落ちこぼれるわけです。一度躓くと、その後がどんどん分からなくなり、気がつくとこっくりこっくり。
再生をとめて戻してから再び再生するとか、何が分からないのか、教科書で確かめるとかすれば良いことは分かっています。分かっているけど、しないんですよね。けっきょく無駄に過ごす90分が繰り返されて、さっぱり分からないままの一ヶ月を過ごしてしまったのです。
このままでは、まずい!なんとかしなければ……。
そこで、ただぼけっと聞いているよりは、教科書に絞って取り組む方がいいと気がついたのです。そのわけは……
わたしは、高校生だったころ、派手に落ちこぼれていました。その理由は、授業についていけなくなると、やる気がなくなるという性質にあったと思うのです。2年が終わる頃に近づくと、先生からは、問題だけは起こすなよ扱いでした。数学の先生は、初めから「できる子しか相手にしない」と授業で公言されていましたし、それは言葉そのままだったのかもしれませんし、だから勉強しろという発破だったのかもしれません。が、とにかくわたしは完全に学校に来ているだけの学生でした。
『このままじゃいかんなぁ』、そう思っていたとき、ふと気がついたのです。小学校のとき、一人で図書室で本を読んで、マイペースでやっていたことがあったことを。
2年生の3月。学校に行って、教室に入り、『きょうはこれだ』と、決めた教科書を授業も聞かず、ひたすら最初から読むことを繰り返しました。分からないことがあれば、それが分かるまで何度も読み、頭に入るまで、決して先に行かないのです。分かったと思ったら、分かったことを自分の言葉でノートに書くのです。それは、やがて教科書以上に教科書になっていきました。教室にいても、授業は聞いていないのですから、先生にとっては失礼だったでしょう。でも、もう落ちこぼれていたので、授業を妨げてもいないわけですから、黙認でしたね 笑。
毎日8時間、夏休み中は10時間徹底的に教科書を読んで読んで読み込んで、分かったら書くこれを半年続けたら、ありえない成績になりました。科目によっては模擬試験で学校で一位、県でも一位、全国で30位ということにもなりました。先生たちからの扱いも変わりました 笑。
そういえば、今年2月、まだ大学が始まる前に前期の科目を選ばなければならなかったのですが、そのとき、ただ単に、これ学びたいなだけで選んでいたのです。これが後から思わぬ事になってしまったのです。
それは、学期末の単位認定試験の日程。
今年は7月26日からの6日間に学習センターで全国一斉に行われます。このことをあまり……、いえ全然というくらい考えなかったのです。わたしの選んだ科目は、26日の火曜、28木曜、30日土曜と、31日の日曜の四日間になっていたのです。そのため、三日も休暇を入れなければならず、ほんと、困ったぁ〜です。
後から分かったのですが、土日の試験科目だけを選ぶことも可能だったわけで、後期からはそうしようと決めたのでした。
ちなみに試験は、視覚障害対応していただきました。CDで録音した音声……、試験問題を読み上げる音声を聞いて、解答する方法と、問題用紙そのものをパソコンに取り込み、音声で読みながら解答する方法の二つを準備していただきました。試験直前に、後の方法でやってみて、もしうまくいかないなら、CDを聞くとしました。
やってみて、パソコン音声でうまくいきました。次回からはこれにしようと思います。
それにしても49才。頭のさび付き尋常じゃないわけで、これまでいかに頭を使っていなかったかを痛感させられた4ヶ月でした。
まさか、あれからたった2年で、また来るとは思ってもいませんでした。前回は、わたしの研究発表のため。今回は、息子の大学進学に向けてのオープンキャンパス。
新幹線で盛岡駅に着いたのは、午後の3時あたりだったと思う。今回の目的地は、岩手県は岩手大学。そして秋田県の秋田大学。息子が興味を持っている学部があるからということです。
その日は、着いた時刻が遅かったこともあり、駅前でレンタカーを借りて、少し観光目的で走り回っただけ。走ってみて分かったことは、やっぱり地震によると思われる道路の亀裂があったことです。あれから、まだたった5ヶ月です。復興へのスタートを切ったばかり。そう簡単にはいかないでしょう。
翌日は早起きをして、秋田新幹線で秋田県に向かいました。秋田駅から街に出て、まずは秋田大学に向かいます。そこで息子は見て回りたいと言うので、わたしと妻は、待ち合わせの時間を決めて、街へと戻ることにしました。それにしても昨日の盛岡の暑さといい、きょうの秋田の暑さといい、ちょっと?いえ、かなり意外でした。散策の途中、コンビニ何度入ってお茶とか、コーヒーとか買って飲んだことか。そんな中、一万歩を越える距離を歩いたのですから…… 笑。
その日は、秋田新幹線で盛岡に戻って、ホテルに入ったのは、午後5時。夕食をホテルのレストランでいただいて、部屋に戻って寝るのもあれだし、もしかして地元ならではのお話も聞けるかもしれないので、妻とバーに出かけることにしました。
旅先でバーでいっぱいは、わたしたち夫婦の楽しみの一つ。バーテンダーさんと話が弾むこともあるし、カウンター席なら、地元の方とお知り合いになることもあれば、わたしたちと同じように旅を楽しんでいる方との出会いということもあります。これまで、いろいろな方々とお知り合いになりました。けど、名前も知らないし、まして電話番号やメルアドの交換もいたしませんので、そういうことでは一期一会ですね。
今回、バーで飲み始めたは良かったのですけど、誰とも話をする……、テーブル席で、接点そのものがありませんでしたし、やっぱり暑さにやられたかなぁで、疲れもあって、あまり酔わないうちにお店を出て寝ることにいたしました。
翌日は、岩手大学のオープンキャンパス。
そこに子供を残して、わたしと妻は、また炎天下の中、ぶらり、街歩きに出ることにしました。その日も、けっきょく万歩計で1万歩を越えるウォーキング。けど、もうホテルには泊まらないのでして、乗り込んだ新幹線が、ホテル代わりの寝場所となったのでした。
わたしは、東北って、もっと涼しいと思っていました。けど、大いなる誤解だと分かりました。
あの日、気温は、絶対に30度を軽く越えていたと思う。 以上、真夏の東北で、ウォーキングをしてきたという話でした。
えっ?地震の話は?ですか。そうですね、地面に亀裂をいくつも見つけましたし、建物にも壁のひび割れ、修復の痕跡もありました。ただ、“壊れた”建物とか、橋に代表される構築物はなかったと思います。もう、撤去されていたのだとしたら分かりませんけど。
それよりも人の営みが戻っている……、震災前に戻るという意味ではなく、前進しようとしていることに感動しました。阪神淡路大震災の後、わたしのばあちゃんの家のある西宮に行ったときも、神戸でも、同じパワーを見たのですから……。
それにしても、このエッセイ、タイトルに偽りあり!(笑)
4月下旬。わたしが受けた電話は、太陽光発電しませんか?というものでした。
電話でのセールスは、うさんくさいと思っているので、そのときも適当に切ろうと思っていたのです。ですが、3月19日にたまたま太陽光発電をしている家を見てきて、それがあれば、仮に地震で停電しても、日中晴れていれば、薄曇り程度でも大きな電力を必要とする家電以外は、動かせる……、確かに屋根からの電気でエアコンが動いていましたから、気持ちがくすぐられてしまいました。それで、ちょっとならいいだろうと……。
話の内容は、やっぱり東北での地震のことでした。そして、その会社が設置した太陽光パネルがあったお宅は、停電していた間も日中は電気が使えたというものでした。そして今なら、補助金が出るし、作った電気は高く売れるというものでした。
思い返せば、阪神淡路大震災。このとき、わたしの母の実家が西宮で被災し、なかなか連絡がつかずやきもきしました。さいわい全員無事でしたが家の中はたいへんだったと聞かされ、決して人ごとじゃないと思ったものです。
次には、新潟県中越地震があり、翌年、被災した病院の関係者に来ていただき、被災状況や対応策を聞きました。これもとても参考になり、やっぱり何かしなくちゃと思ったのです。
そして2007年3月25日の午前9時45分頃、震度4の地震を経験しました。震源地は能登でした。この日、わたしは試験のため出かけていたのですが、揺れるとすぐ机の下に入り、ケータイで妻に安否確認のメールを送り、友人にも送っていました。さいわい何もなかったのでほっとした思い出があります。
最期に東日本大震災。これはショックでした。
そういうことで、電話ではなく、きちんと話を聞きたいとしたのです。
5月6日の午後。わたしは休暇を入れて、自宅に帰りセールスマンを待ちました。そして時間通りに来訪。話を聞きました。
話は、自社のものは良いものだと言うのが常です。ですので、そのあたりは割り引いて聞きます。聞いた話をざっくりとまとめるとこうなります。
メリット
結論から書くと、ソーラーパネルは、発電効率は低いが、半永久タイプ。パワーコンディショナーは、標準的な物で、施工、設置の契約をむすんだのでした。
工事は、ソーラーパネルの入荷待ち。3月の震災以来、太陽光発電の全国的拡がりのため、品薄。おそらく6月下旬との案内があり、待つことといたしました。
しかし、太陽光発電の物不足は、予想以上になったため、6月に施工できず、7月にも間に合わず、それが屋根に乗ったのは、8月9日となったのでした。
発電モニターには、リアルタイムの発電状況、過去の発電リスト、そして自宅使用量と売電量も表示されます。それを見ると、夏の日中は、フルに発電していて、屋内配線で使っている量よりも、電力会社に売っている量が勝っていることが分かりました。
なるほど、これが太陽光発電なのか〜です。