この年のエッセイは、2023年12月に、わたしの日記などを元に記述したものです。
内容は、できるだけその当時の記録を忠実にトレースするようにしてあります。
お伊勢参り 2007年 1月 8日
京都旅行 2007年 4月28日
演奏会 2007年 6月17日
えっ!地震!? 2007年 7月16日
不思議な夢 2007年10月 8日
昨年11月に伊勢神宮の内宮に、それも閉まるひりぎりの午後4時を過ぎて参拝しました。が、どうやら、お伊勢参りというのは、お参りの順番があるようです。少なくとも、外宮をお参りしてから内宮なのだそうです。ということで、もう一度やり直ししようということで、1月7日に名古屋に講習のために行った翌日に朝からということにしました。
今回は、次男も誘って、親子三人で早起きして名古屋に向かいました。わたしは、講習会場、妻と息子は新年の名古屋をエンジョイです。
そして午後4時半。わたしたち三人は、名古屋駅に向かい、そこから近鉄で湯の山温泉に向かいます。駅を降りると、もう今回泊まるホテルのクルマが迎えに来ていました。クルマに乗れば、他に乗るお客はいなかったようで、すぐにおじさん、たぶん宿のご主人、がクルマをスタートさせました。
まもなくクルマは、坂道、それもそこそこ勾配の強い道を上り始めます。そして周りは雪道になっているようです。聞けば、この先、スキー場があるそうで、その近くまで行くとのこと。まさか三重県でスキー場、しかもばっちり凍結路を走るとは思ってもいませんでした。
そしてチェックイン。その日、家族で温泉とおいしい食事を楽しみ、ゆっくりと眠りに就きました。
翌朝、朝食と温泉を楽しんでからチェックアウト。また、人の良さそうなおじさんに駅まで送ってもらい、近鉄で伊勢市駅まで行きます。そこからは、降りた人たちのほとんどが徒歩で行くようなので、わたしたちもそれに着いていきます。それにしても大変な賑わいです。11月の内宮のときとは大違い。でも、きっと、これが“いつも”なんですよね 笑。
境内に入ってみれば、やはり多くの参拝客がぞろぞろと歩いて行きます。この流れに乗って行けば、確かに最短でお参りして出て行くことができるでしょう。ただ、それだと高速道路の渋滞と同じ。前に送れずついて、後ろにも気を遣います。そういった自由は後でいいので、まずは、流れのないところでのんびりすることにしました。
そうして見ると、外宮は内宮とは雰囲気がかなり違うことに気がつきます。一言で言うなら、もっとフレンドリーな感じ。カジュアルささえあるのかもしれません。
一回りしてお参りしてから、お守りを買い求めようと売店に近寄ります。すると、
「おめでとうございます」
と、和服姿の巫女さん?の柔らかい声。一瞬、何がおめでたいのか見当が付かず、頭がマッしろになりました。そうして、反応するタイミングを完全に逃してから、『あっそうか、お正月だからなのか』と、気がつきます。今更、おめでとうを返すわけにもいかず、軽く頭を下げる以外、どうしようもなかったですね 笑。
外宮を後にしてから、近くの食堂でお昼にして、そしてバスで内宮へと移動します。着いてみれば、外宮での混雑など比べものにならないほどの大混雑がそこにありました。とりあえず橋のたもとに並びます。まさかこれが内宮のいつもなのか!?と……。
ずっとずっと、ずうううううううううっと人の列。石段を上がって、お参りして、また、ずっとずっと、ずうううううううううっと人の列に混じって戻ってきました。これ以外どうしようもなかったのです。
おかげ横丁もずっとずっと、ずううううううううううううううっと人の列。
帰りの電車に乗ってから、外宮での写真があるのに、内宮では何も撮っていないことに気がつきました 笑。
昨年は7月から2月に至る長い研修がありました。その甲斐あって?3月25日の試験は、めでたくパスできました。それにしても、試験会場に入って、さあこれからというちょうどそのとき、グラグラグラ。地震です。これまでの経験から震度4と直感したわたし、すぐに机の下に潜り込み、ケータイを取り出して、妻などに、地震を知らせ、危険があると思ったら対応して!とメールを送りました。そして揺れが終わったのを見定めて机の下から這いだしてみると、そんなところにいたのはわたしだけだったことが分かり、なんだか気恥ずかしいやら、照れくさいやら……。「すいません」と、言いながら椅子に座りました。どうも職場での火災避難訓練等が身体に染みついているようで、ぱっと反応しちゃうようです 笑。
何はともあれ、ここ半年、旅と言えば研修になっていましたので、またいつものスタイルに戻そう!と、思ったのです。そこで子供たちに聞いてみると、それぞれあるようで、誰もつきあってくれません。ならば、せっかくだし、思い出の京都で妻とデートにしよう!と決めたのでした。
京都に来たことは何度かありましたが、東寺はまだでした。ですので、京都駅から近いし、行ってみよう!と、近鉄に乗り換え、東寺駅で降りて歩きます。そして、まもなく着きました。
ここは、弘仁14年(823年)1月19日に、嵯峨天皇は、弘法大師空海に託したお寺なのだとか……。わたしには、どれほどの建造物があるのか?どれほどの仏像があるのか?どのような姿形なのか、表情なのか?を知る手立てはありませんから、とにかくとりあえず、仏像……、不動明王の前だというところに立って、そして真言宗とのこと、知っている真言、ノーマクサンマンダーバ……、大日如来なら、オンバザラダトバンを唱えてとしたわけです。そうして広い境内を妻と歩いて一通り見て回ったのです。
時計を見れば時間は午前9時48分。空は晴れて暑いくらいです。わたしも妻も、上着を抜いて、わたしの背中のバックパックに詰め込みます。
「ねえ、あそこにあるの、茶屋かしら」
「いいねぇ。冷たいものをいただこう」
「ソフトクリームがあるわ」
「それいいね!」
二人で抹茶ソフトを食べて一服の涼を楽しんだわたしたち、京都駅に戻ることにしたのでした。
京都駅に戻ったわたしたち、地下に降りて、地下鉄を乗り継いで、二条城前駅 から地上に出ます。目指すは、雨乞いの池で知られている神泉苑です。
ここは、あの空海が干ばつの時に、雨乞いの祈りを捧げたとされています。そして、祈りにより、善女龍王が来て雨が降ったとも……。以来、善女龍王がそのまま住んでおられるのだとか。いわれはともあれ、わたしと妻は、その辺りを散策しながら写真を撮ったりして「そんなもんなのかなぁ」と……。
「そろそろ行こうか?」
「ええ、そうね」
そうして通りに出て地下鉄の駅へと歩き出してまもなく……
「あれ?」
「雨かしら」
まもなく、後ろから、雨が、それもちょっとやそっとの雨じゃなく、文字通りの土砂降りの雨がわたしたちに向かって来ると妻が言います。
「走れ!」
「どこへ?」
「どこでもいいから……うわっ!雨が来た!」
「コンビニがあるわ」
「そこだ!そこに入ろう!」
コンビニの入口から中に入ったとき、わたしたちは頭から水をポタポタ垂らしていて、トップスもボトムスも半ばびしょびしょです。とりあえず、バックパックからタオルを出して、水気を拭いて時をしのぐことにしました。それにしても、さっきまでの、あの暑いくらいのお天気は一体どうなったのだろうか?そう思いながら、このまま外に出るわけにもいかないので、ビニールの傘を買い求めて、外に出ました。
地下鉄の駅に降りて、次の目的地に向かうことにしたのですが、途中で、“神泉苑を出たところで突然の大雨にびっくり仰天!”と、友人にケータイメールしたのです。すると、“それは、善女龍王さまを呼んだのだよ”と、返信が来たのです。
「まさか!うそでしょ?」
妻と顔を見合わせたのでした。
その後、ずっといい天気です。なんであなたたち傘なんか持っているの?と言われているみたいに晴れています。もちろん、道路はどこも濡れていません。濡れた形跡さえありません。もしかして、本当に、ピンポイントで降ったの?です。
今年最大の出来事は、やっぱ、これかなと思いながら、妻と出かけます。行き先は、地元の小ホール。そこで、地元中学の吹奏楽部こんさーとがあるのです。
開演20分ほど前、クルマを駐車場に駐めてホール入口に向かいます。入ってみると、座席は半分以上埋まっているようです。わたしたちも空いている席に腰を下ろし、開演の時間を待ちます。わたしは、ポケットからデジカメを取り出し、動画撮影モードを確認して、妻に手渡しました。
開演のアナウンスがあり、しばしの間をおいて、タラーラタラーラ タラーラタラーラ、演奏が始まりました。
そして次男が、あの中でチューバを吹いているはずです。タラーラタラーラ ボー ボー ボー あれがチューバに違いありません。きっとあの音は息子だ!
去年、彼は中学生になりました。部活を選ばなければなりません。そしてそれほど日をおかず、吹奏楽部に入ったと言いました。ちょっと驚きました。どちらかというと、体育会系でいくと思っていたからです。それでも、やりたいというので、応援するからと言いました。
しばらくして、チューバ担当になったと言うので、妻と、地元でいちばん大きな楽器店に行って、チューバのマウスピースを買って、彼にプレゼントしました。彼は彼なりに精一杯やっていましたし、やっぱりだんだんと上達していましたからね。
1年経って、2年生になり、まもなく学校から、登校していないとの連絡がありました。まさか!とは思いましたが、そういえば近頃ちょっと元気なかったような気がします。事の次第は省くとして、大多数を占める女子部員によるハラスメント、とだけ記述しておきましょう。
わたしと妻は、彼に、きちんと分かっていなかったことを謝罪し、部をやめたければやめていいし、学校もいやなら行かなくていいと言いました。親は生まれてきた順番として“親”という立場であるに過ぎません。たかだか数十年先に生まれただけなのですから。子供に対して不適切であれば、謝らなければならないと思っています。
次男は、しばらくして学校に行くように鳴り、部活も続けることとなりました。ハラスメント側の女子生徒たちがどうなったかは、聞いていませんし、聞く気もありません。
演奏会は、大盛況で終わりました。わたしも妻もうれしい気持ちいっぱいで帰ってきました。
この日、妻と、朝からドライブ。子供たちは、それぞれ予定があるようで、一緒に行ってくれないので、二人っきり。海へ行こうか?それとも山がいいかな?と、クルマに乗ってから行き先を……。
なんとなく山へ行こうと決まり、途中コンビニで缶コーヒーを買って、そもそもスタートが遅かったので、山道に入る前に、お昼を食べてとなりました。
空は曇り空。台風14号の影響もたいしたことなかったし、気温25度にも満たないようなので、この時期の割には過ごしやすい感じです。
上り坂にさしかかって、ときどき路肩の駐車スペースにクルマを駐めて、降りてはその辺りを散策するを繰り返して少しずつ頂上に向かって行きます。そうこうしているうちにいよいよ頂上に到着。その辺りを散策することにしました。見晴らしけっこういいので、カメラかまえている人もちらほらいるようです。ときどきシャッター音が聞こえてきます。わたしと妻も、デジカメで風景を撮影してみます。時間は午後2時を過ぎたところです。
「もう少し行ってみよう」
と、クルマに乗り込んで、登ってきた道とは反対の道へと向かいます。そちらに下りた方が帰りが早くなるという見込みもあったのですけど、違う道を選ぶメリットの方が強かったのです。
そのとき、わたしのケータイにメールが入りました。見ると、思わず、「えっ!」
知人が夫婦二人でクルマで旅行に行っているという内容でしたが、そこで地震に遭遇し、帰ることができなくなったという文面です。
震源地:新潟県上中越沖 深さ17キロ。 |
発生時刻 : 2007年7月16日(月曜日)午前10時13分。 |
地震規模:マグニチュード6.8:最大震度6強 |
知らなかった。まさか、そのような所に行っていたとは。
次に、道路が至るところでひび割れ、段差、陥没などがあって、身動き取れないという文面が届きました。時刻はもう午後3時。なぜ、今頃!?と、思いますが、どうやら無効のケータイが役に立たなかったようなのです。
今、わたしたちにできることはメールを送ることだけです。他にできることは何もありません。ただ無事に帰ってきてくれることを祈るばかりです。
それにしても、カーラジオをとめていたので、そういうことが起きていたことさえ、知人からメールをもらうまで、全く知らなかったのです。途中立ち寄ったコンビニや、お昼を食べたお店でも、そのようなニュースは流れていなかったのですから……。
その日、目的は大学のオープンキャンパス。
クルマを大学近くの駐車場に駐めて、わたしたち夫婦と、二人の息子の四人で大学構内に入り、およそ2時間、歩いて見て回りました。その後、わたしたちは、クルマに乗り込み、次の目的地、宿泊予約を入れているホテルへと向かいます。
チェックインして案内された部屋は、窓から海が見えます。窓を開くと、波の音も聞こえてきて、いい感じです。天気は上々、割と波静かのようです。子供たちは台よ屋上に、わたしと妻は、とりあえず部屋でのんびりしてから、お風呂にすることにしました。
お料理は、やっぱり海の幸が、ふんだんに盛り付けてあります。飲み物は、子供たちは、ジュース、わたしと妻は、とりあえずビールで、乾杯!
食べてしゃべって、飲んでしゃべって。子供たちはジュースをお変わりして、わたしと妻は、地酒をひやで……。すっかりお腹いっぱいになりました。
その後、お風呂に入って、部屋に戻ったわたしは、妻と、もういっぱいやりながら、子供たちと学校のこととか、部活のこととか、いろいろ話を聞きます。そうしているうちに夜も更けてきましたから、それぞれに床に就くことにしまして、子供たちは洋間のベッドに、わたしと妻は、和室に敷いてある布団に横たわりました。
ふと気がつくと、なんだか息苦しさがあります。身体を動かそうとしても、なぜかぴくりとも動きません。どうにかしようと思っても、手も足も、首さえも動かせないのです。
『おかしい。一体何が起きているのか?』
そう思っていると、それが通じたのか、目を開くことができました。(……でも、実際はそう思っただけ)
すると、なんということでしょう?わたしの身体に馬乗りになっている人がいるのです。目をこらして見ると、それは頭が薄くなり始めている白髪の男ののようです。白い衣服を着ています。そして、その老人がわたしに向かって何かを言っているのです。
「409号室の患者が亡くなった」
あいそのない、落ち着き払った声です。
ふと職場のイメージが頭をよぎります。『409号室?おかしい。そんな病室はありません』そう思うのに、身体は動かず、声も出せないのです。とにかくなんとかしなければ……。と、そのとき、もしかしたら!と、心の中でお経を唱えてみます。
すると、それまでわたしの身体の上にいた老人が、ふわりと舞い上がり、くるくると回り始めました。そして回りながら、人の形がぼやけ、顔の造作もいつの間にか消えてしまい、火の玉のようになり、回転しながらどこへともなく消え去ってしまったのでした。
と同時に、わたしを押さえていた強い力がきれいさっぱりなくなり、わたしはがばっと起き上がることができたのでした。
あれは一体だれだったのか?たぶん知らない人。わたしに、どんな用があったのだろうか?と、思いますが、さっぱり分かりません。枕元に手を伸ばせば、そこにケータイがあります。時間は、午前3時を少し過ぎたところです。
隣では、妻が気持ちよさそうに寝息を立てています。隣の部屋の子供たちも何事もなさそうです。とりあえず、飲み過ぎたのかも?と、洗面台に行ってみても、何の気配もありません。ペットボトルの水を飲んで、自分の寝床に戻って、寝直しです。
果たしてどれくらい時間が経ったのだろう?目が覚めました。なのに、また身体の自由がまったくききません。でも、さっきのような重圧感はありません。
と、そのとき、目の前に……。
そこは、純和風の畳敷きの部屋。六畳間ぐらいだろうか。部屋の隅には、黒く塗られた柱があり、壁の中程には障子戸があります。窓からは、狭い道を見下ろすことができることから、そこが二階の部屋であることが分かります。そして、道の向かい側には、同じような二階建ての和風建築物が並んでいます。どこにも人の気配がなく、静かそのもの。むしろ寂れた感じさえします。
室内に目を転じれば、いつの間に入ってきたのだろうか、若い女の人が、静かにたたずんでいます。髪は黒く肩に垂れ下がる程度。肌は透き通るように白い。顔に表情はなく、目は開いているが、こちらを見ているようないないような様子です。服装は、セーラー服のようです。だから、女子中学生か、女子高校生なのだろう……と、思っていると、そのセーラー服が、みるみるうちに白装束に変わり、ついには、その衣装もろともに女性の身体は、透き通っていきます。
徐々に薄れていく女性をなすすべもなく見ているしかなく、それと同時に周囲にあった壁も柱も障子戸も消えてしまったのでした。
『これは?』と、思っていると、いつの間に戻ったのか、わたしは布団の中で仰向けに横たわっています。手も足も何事もなかったかのように動きます。枕元のケータイを引き寄せて時間を確かめれば、まだ4時にもなっていません。ケータイの横に置いたペットボトルの水を一口飲んで、仰向けに横たわれば、また眠りに……。
この後、6時に起床するまで、あと2回、身体の自由を失いました。これまで、これほどハードな経験をしたこと、一度もありません。こういうの一般的には、金縛りと言うのですよね 笑。