百才 2014年 1月 3日
胃カメラ 2014年 2月 4日
replacer 2014年 3月30日
芦ノ湖 2014年 4月 6日
おかたづけ 2014年 8月24日
皆既月食 2014年10月 8日
長崎、再び 2014年11月22日
忌引き 2014年12月19日
祖母百才の記念パーティーのために、わたしと妻、そして次男と電車を乗り継いで神戸に来ました。パーティーは、午後6時からですから、まだ4時間以上余裕があります。そこで、神戸は久しぶりだし、異人館を見に行こうとなりました。
三人で坂を登ったり下りたりしていくつか異人館を見て回っているところに、長男が合流、久しぶりに一家勢揃い。お互いに近況を話したりして和やかなひとときです。
「そこの露店でビールはどう?」
「いいねえ」
そこには、何種類も置いてあります。売り子のおねえさんが、一つずつ名前を言っては、どういうビールだと説明してくれます。その中の一つに思わず反応してしまいまして……、
「ええ?18度のビールだって!?」
「いかがですか?」
「ビールに18度だって?信じられない」
ふつうビールといえば、アルコールは5度前後、高くても8か9度ぐらいでしょう。それが、それは18度だって言うんですよ。日本酒ぐらいあるわけです。お酒の醸造で、18度って、たぶん高さとして限界値だと思うのです。それをビールで!というので、飲んでみたくなったのですね。
「それください」
「あなた?」と、妻。
「飲んでみたいんだ。それにするよ」
妻も子供たちもそれぞれにライトな風合い、ちょっとホップのきいたの、香り豊かなのと注文して、テーブルに戻ります。わたしの手には、小ジョッキほどのカップがありまして、なみなみと注がれています。泡もあふれそうなほど盛り上がっています。一口飲んでみれば、間違いなくビールです。それをちびちびやっているのもどうかということで、そこそこググッとやりまして……、お天気はいつものことで、晴れ。気持ちよく晴れています。でも、風はやっぱり寒いわけで、暖まりたかったのですね 笑。
それから、四人で異人館を見ながら、少しずつ坂を下りて行きます。電車の駅に着くコロニは、すっかり暖かくなりました。ほんと、ビールでこれほどの酔い、初めてでした 笑。
甲子園で電車を降りて予定のホテルにチェックイン。それからパーティー会場に出かけるために外に出てみると、もうすっかり日が暮れて寄るになっています。
そもそもばあちゃんが百才になるのだから、この際だし、記念にパーティーやらない?親戚が一度に集まる機械にもなるしと言ったのは去年の夏。みなそれぞれいろいろあるだろうけど、お正月なら集まりやすいしということで、この日になったのでした。
入口で名前を言って案内された部屋に入ってみると、もうほとんど来ていました。わたしたちは、指定された席につきます。みなそれぞれ、昨日合ったばかりの人もいれば、久しぶりもあり、しばらく、互いに近況を話したり、ばあちゃんに声を掛けたりして……。そうやって楽しくわいわいがやがや。あっという間の2時間。
「ばあちゃん、元気でね」
「じゃあまた」
「お元気で」
それぞれ、ばあちゃんに声を掛けて、手を握ったり……。
電車で帰る人もいれば、ホテルに泊まる人もいて、わたしは明日は休暇にしましたので、今夜は久しぶりに一家四人で過ごそうと、ホテルに向かったのでした。
胃カメラの話があったのは、昨年暮れ近く。
「念のためにやっておきましょう。何もなければそれでよしですから」
そういえば胃の検査、しばらくやっていませんでした。確かに大学の勉強で睡眠減らしているし、KY職員のことでいらいら気味だし……、こちらの方が何倍もタフな思いしてるからなぁと、後期単位認定試験が終わった最初の週に予約を入れたのでした。
検査台の横で椅子に座っていると、ナースが「これを口に入れてゆっくりと溶かしながら飲んでください」と、キシロカインの氷を手渡します。これは、麻酔剤です。口に入れて舐めていると、徐々に舌や、頬の感覚が麻痺してきます。でも、目的は喉を麻痺させることにあります。ファイバースコープが喉を通過するときの接触で吐きけを催しやすいので、これを抑制するためのものなのです。ですから、溶けたキシロをできるだけ喉にまんべんなく当たるようにしていたのですね。
そしてちょうど飲み終わったところに、ナースが入ってきましたので、コップを手渡しました。と、そのとき入れ替わる結おうに検査を担当する医師が入ってきます。わたしは、指示通り、検査台に横になります。
胃カメラには、鼻から入れるものと、口から入れるものがあります。わたしは口から、つまり経口内視鏡を選択しました。そちらの方が、太めのスコープになるので、明るいライトで鮮明な画像が得られ、結果診断しやすいからです。
それにしても、しっかり喉に麻酔がかかっているはずなのに、ファイバースコープが入る時、軽い吐き気が出ましたね。
先生は、画像を見ながら内視鏡を操作され、食道、胃の噴門部(入口)、胃底部、胃体部、そして幽門部(出口)、更に十二指腸まで検査され、その場で様子を言葉でも言われます。検査が終わってみれば、全く問題なし。特に治療の必要なしということになりました。正直、ほっとしました。
さあ、大学も残すところあと一年。卒業のために必要な単位数は、もし先日受けた試験を一つも落としていなければですが、あと20単位。ただし、そのうち5単位分が面接授業。つまり学習センターに授業を受けに行かなければなりません。しかもそのうち2単位が、認定心理士を目指すなら絶対に必要な心理学実験です。ここまで、危ない科目も若干ありましたけど、とにかくどれも落とさずにやってきたのですから、残り全部、やっぱりこのままの調子で行きたい、そして来年の今頃は、笑顔でいたいものだと思うのですね。
久しぶりにプログラミングをやろうと取り組んだのが、2年前の夏。選んだ言語は、エクセルでVBA(Visual Basic for Applications)でした。あれから、こつこつ、のんびりVBA言語のボキャブラリーを増やしながら、ちょびちょびミニプログラムを作って、半分遊びながらやってきまして、ようやく昨年、OCRで出力したテキストに含まれる誤認識文字を見つけて、正しい文字に入れ替えるソフトができあがりました。
誤認識文字を見つけるといっても、やっていることは、単純です。日本語を解析して、文法的に合わない文字を検出するといったレベルの高いことは全くやっていません。誤認識単語を検索しては、それに対応する正しい単語に置き換えるだけのプログラムなんです。ですから、このソフトが使い物になるためには、誤認識単語リストが必要なのです。
そこで、このところ過去にOCRで出力したテキストから、誤認識文字を一つずつ探して、誤認識データベースを作るということをやっています。
例えば……
誤認識単語 | 訂正単語 |
---|---|
糸ロ | 糸口 |
居問 | 居間 |
意昧 | 意味 |
親了 | 親子 |
学老 | 学者 |
空問 | 空間 |
昨口 | 昨日 |
入形 | 人間 |
白然 | 自然 |
コソピ | コンピ |
工ッセイ | エッセイ |
上のテーブルで左の列が誤認識を含む単語としてピックアップしたもので、右が訂正した単語です。漢字単独では、漢字の「自」が、「白」に化けるとか、「口」が、カタカナの「ロ」になるなどがあり、カタカナの「ン」が、「ソ」に化けるもよくあります。だからといって、その文字だけで正しいか間違っているかは、判断できないので、前後の文字と組み合わせて、「白然」は、存在しないだろうから、「自然」に直した方が良いだろうとプログラムで判断せず、正誤判定表をあらかじめ作っておく。そういうことをやっているのです。
次のテーブルは、小説などの縦書き文書で見られるへんてこ誤認識です。
誤認識単語 | 訂正単語 |
---|---|
ロハ今 | 只今 |
立早 | 章 |
ムフ日 | 今日 |
マつ | 「う |
・?凡 | うえ |
・兀 | え |
一つの文字が、上下に分解して、二つの文字になっていたり、更には、分解した上の部品が上の文字と組み合わさって一つの文字に化けていたり、その逆だったり、とにかく想像の限りを尽くして化ける前の文字を推理して正しい単語を決めています。原本を目で見ればどうということのない作業なのですけどもね 笑。
とりあえず、探しにさがして、1000パターンを越える誤認識単語を正誤判定表に拾い出すことができました。今月、それを用いてこれまでOCRした文書を次々と読み込んでは添削して出力してみています。ものによっては、数百の単語を訂正した……、添削の数もカウントするようにしたので……、やってみて良かったなって、ちょっと満足しています。
今は、一つずつテキストファイルを選び、誤認識解析開始ボタンでプログラムが動くとやっていますが、そういうことも自動化して、フォルダーを決めるだけで、そこに入っているテキストファイルまるごとやっちゃうようにしようと思っています。
タイトルのreplacerは、このソフトの仮の名前です。とりあえずのベータ版です。たぶん、バグはないと思うのですけど、もう少し機能アップできたらと思っています。
そこで気がかり…、放送大学も4年目に入ります。ここできちんと決着、卒業、そして認定心理士になりたいので、プログラミングはしばらくおあずけにしようと思います。やり出すととまらなくなるので…… 笑い。でも、オフはオフです。息抜きは必要ですからねぇ 笑。
昨日、東京ドームで行われる福山雅治さんのコンサートのために状況。開演までに時間があるので、久しぶりに行ってみたくなった場所があると、妻に言い、東京駅から、中央線の電車で御茶ノ水駅。ホームに降り立ったわたしたち、聖橋方向に向かいます。そうすると、思い出しちゃう宇のよ、あの歌。
さだまさしさんの檸檬。
ここに歌詞は乗せられないから、興味ある方はそういうサイトで調べていただければと思います。この曲の歌詞に出てくる地名に、“湯島青銅”、“聖橋”、そして風景として、“快速電車の赤い色”、“各駅停車の檸檬色”と、あります。昔、高校を卒業して東京で一人暮らしを始めて、いつの頃だったか忘れましたけど、その場所を探しに行った思い出があります。たぶん、そのときは、地下鉄丸ノ内線で行ったはずですけど、今回、東京駅で山手線から丸ノ内線乗り換えは、メリットないので、そういうことになりました。
聖橋を半ばほどまで歩いて下を見下ろしてみます。妻には、歩きながら話はしてあるので、彼女も興味津々な様子です。そのとき、いつのコンサートのとこだったかなと記憶を探ります。さださんは、ここで檸檬をかじって投げてみたのだと言っていました。歌の雰囲気はマイナーでどちらかと言えば陰鬱、沈痛なのですけど、ステージでは、軽妙な口調。ときどき会場から笑い声も……、とにかく、そういうのりですからうまく引きつけられたと思います。
神田川をしばらく見て、湯島青銅へと歩いているうちに、それまで晴れていた空が暗くなり、突然の雨、それも大粒の雨が降り出しました。わたしたちの旅では珍しいことです。目前の湯島青銅に駆け込んで、雨宿りすることにいたしました。これもまた、さださんの歌のご縁かしら?と二人で笑いながらしばらく待ちました。そのとき、ふと『この雨の雰囲気、あのときの雨と似ているかも』と、わたしも妻も同じ事を考えていたことが、後から分かりました。それは神社などにお参りするときに降る、まるで何かの儀式のような通り雨。
そう思っていたからなのか?分かりませんけど、やっぱり雨はすぐにやみまして、そこから、もう少し先の神田明神まで歩きます。そこは、ちょうど桜の時期と重なったこともあり、多くの参拝客でにぎわっています。わたしたちも列に並んで参拝し、御茶ノ水駅の方に戻ることにしました。
御茶ノ水駅近くまで来たわたしたち、そこから水道橋駅へと行ってもいいのですが、まだ、ちょっと早すぎます。
「神田神保町はどう?」
「?」
「昔よく来ていた本屋があってね、行ってみてもいいかい?」
「いいわよ」
まず三省堂に入りまして、下から上の階まで順番に見ながらと、思っていましたら、1階に入ったところでちょっとした人だかりです。もしかしてサイン会?それは分からなかったのですけど、そこはスルーして上の階へと向かいます。そうやって、フロアごとに見て、妻はときどき立ち読みして、二人で興味のありそうな本をさがしてと、時間を過ごします。
三省堂からは、神保町駅に向かって、本屋を訪ねながら歩きます。あれから35年ぶりだというのに、まだ営業しているお店がいくつもあって、驚いたと同時にうれしくもありました。変わらないお店と、変わった風景は、わたしには新鮮でしたね。
そして、都営三田線で東京ドームに向かったわたしたち、水道橋駅からは、もう東京ドームに向かうほどに人が増えてきています。開演までまだ1時間以上あります。入口にはもう人の列ができています。どうしようか?と妻と話をして、近くのお店で休むことにしたのでした。
ところが、周辺のお店は、もう人でいっぱいです。けっきょく歩き回った末に、バー?パブ?みたいなお店……、そこも人でいっぱいだったのですが、そこに並んで、わたしはジンをやりたかったのですが、マティーニはないということで、ジンリッキーを、妻はモスコミュールだったかな?で時を過ごしたのでした。
コンサートが終わり、丸ノ内線に向かう人の波に続きます。そこからは、池袋は西口。ホテルにチェックインする前に、吉野家の牛丼でお腹を満たします。そしてホテルの部屋で今夜どうする?と、妻と相談です。わたしとしては、以前来たときのバーがなくなっていたので、特に希望のお店はありません。前もって調べていませんでしたから、そうなると当てもなく歩き回ることにもなりそうで……。すると、妻はこのホテルのバーでどう?と言います。わたしは願ったりということで、その夜は、そこに落ち着いたのでした 笑。
翌朝、7時にチェックアウト、池袋の地下でそばを食べてすぐ、山手線内回りで品川、新幹線こだまに乗り換えて小田原へと向かいます。目的は箱根。妻は一度箱根に、芦ノ湖に行ってみたいと言っていましたから、それじゃあ行こう!と、決めていたのです。荷物は、ホテルで宅配で送りましたから、わたしが背中に小さな空っぽのバックパックを背負っているだけのお気軽スタイル。
小田原駅で新幹線から小田急に乗り換えて、箱根湯本駅。そこからバスに乗り換えて、芦ノ湖の湖畔に着いたのは午前10時頃。そこからは、徒歩で九頭龍神社本宮を目指します。
歩き始めてすぐ、湖畔の道路に誰もいないことに気がつきます。まるで貸し切り?気分です。軽いアップダウンのある道路を30分ほど歩くと、右側に見えてきました。入口の建物で入場料を支払って、境内に入ります。すると、何人かの参拝の方々にすれ違ったりしましたが、それだけです。案外少ないので驚きました。
驚いたといえば、境内は芦ノ湖に接しているのですけど、その湖畔から、5メートルほど沖に、女の方がいるのです。泳いでいるというのではなく、胸ぐらいまで水に浸かって、ただたたずんでいるといった様子。冬が終わったとはいえ、水は相当冷たいはずです。なのに……。
わたしたちは、ゆっくりと歩いて、そして九頭龍神社の拝殿でお参りしている、ちょうどそのときです。
ドカーーーン!
一発の雷鳴が響き渡りました。
すると、山の上から、一筋の白い雲が風に乗ってまるで山腹を舐めるように下りてきます。一体あれは?と思っていると、その雲はまもなく湖の上数十メートルの高さで山から離れて、水平に湖の上を突き進んでいきます。しかも行き先は間違いなく“ここ”、わたしたちがいる拝殿です。
「こっちに来るわ!」
「龍神さま!」
「来たわ!」
白い雲の帯がわたしたちのいる拝殿のすぐ上を通過すると同時に、
バラバラバラバラ、ババババババババ、シャーーーー!
それは氷の粒です。周囲の視界が消えていきます。なにもかもが白一色に包まれて拝殿の周りの地面もあれよあれよという間に白に塗り替えられていきます。
「龍神さまが来られた!白い龍神さまだ」
「白龍さまなのね」
「そうだな」
風はありません。時間にして5分?それとも10分?果てしなく続くかと思えた、素晴らしいショータイムも終わりが近づいてきました。氷の降り方が弱くなり、とうとうやみました。雲は、来た方角と真反対の方角に遠ざかって行っていきます。わたしたちは、おそるおそる拝殿から出て階段を下りていきます。積もった氷に足を乗せれば、ザクザクサクサクと軽快な音を立ててわたしたちの靴を受け止めてくれます。積もった氷は数センチ以上です。周囲には誰もいません。湖の中にいた女性も見当たりません。いるのはわたしたちだけです。『完全に貸し切りにしていただいた!』、そう思ってしまいました。
サクサクと白い境内を歩いて、もうしばらく参拝を続けて、入口のげーとに戻ってみますと、受付の女性の方が、「まだいらしたのですか?」と、驚きの声を……。まさか、まだあの中にとどまっているとは思ってもいなかったのでしょう。こちらとしましては、『あれほどの大歓迎を受けておきながら……』とは、口が裂けても言えません。でも、顔が笑ってしまっているので、きっと変な人たちだと思われてしまったと思います。
お土産をいくつか買い求め、バス停に向かって歩き出します。すると、すぐに足下に積もっている氷が少なくなっていくことに気がつきます。そしてまもなく、なくなってしまいました。溶けたのではなく、そもそも降っていないようなのです。
バス停近くのレストランで、妻と少し遅めのお昼を食べて帰途に就いたのでした。
今年は二つのビッグイベントがありました。
一つ目は、次男が、大学を2年で辞めて家に帰ってきたこと。最初は良いと思っていても、通ってみるとそうでもなかったと言います。そのことについては、本人がそう言うのですから、わたしも妻も異論はありません。いつでもお帰りです。そして、しばらくして、就職、働き始めました。
二つ目は、長男の結婚です。卒業した大学の近くで就職し、そのままそちらで所帯を持つと井言うので、わたしも妻もおめでとうです。そのお嬢さんとおしあわせになってねぇです。
次男がアパートを引き払ってから、持ち帰ってきたいろいろ、大きい物には、ベッド、洗濯機、机など、小さい物は、食器、衣服、その他諸々があり、置き場所に困るほど。そして、長男の部屋にあった物品のいくらかは、長男夫婦が持って行き、残りは処分していいよとなりました。
そこで、3年前に受けた研修のことを思い出しまして、資料を探します。資料といっても、配布されたレジメをそのまま持っていても使えないので、パソコンに記録してあるファイルを探す手続きとなります。その年に参加した研修は、全部で27回。それを順番に見ていくとありました。11回目です。タイトルは、“5Sについて”です。
5Sとは、整理、整頓、清掃、清潔、習慣の五つの単語をローマ字で書いての頭文字“S”から取った造語です。内容は、医療介護の現場において、業務の効率化を目指すとき、最初にやるべきことといった内容です。話された内容は確かに業務改善に鋭く切り込んでいました。でも、エッセンスそのものは、自宅に持ち帰っても何ら無理のないものばかりです。今回、そのうち、最初の“S”、整理から引っ張ることにしました。
整理の基本。それは、物品の仕分けです。ここで大切なことは、期限を決めて、例えば1年とか、2年ですね。まずは、それを決めます。例えば2年としましょう。
物品を見ては、“ここ2年間に使ったかどうか?”を見極めます。そして、使っていた物は、“使っていた物置き場”に置きます。それ意外は、“使っていなかった物置き場”に置くのです。この手続きはきちんとしましょう。ただし、物品には、通年利用の物と、季節や、祭りなど、通年利用しない物があります。ですので、通年性のない物は、期間を二倍にするという風にしてもオーケーです。とにかく、そういう線引きをして、使わなかった物を選別するのです。ここに例外は持ち込みません。思い出とか、○○からいただいた物だとか、そういう特例は作らないのです。
この作業をする前に、大切なことがあります。それは、“全部出す”です。広めの置き場所を決めて、どれほど面倒でも、残らず出してしまうのです。そして、決めたルールに従って、分けるのです。ここに持ち込んではいけない気持ち、それは『まだ使える』、『いつか使う』、『もったいない』です。
分類が終わったら、使っていない物の中から、“いつか使う”と思う物に当てはめる次のルールの搭乗です。それは、いつかとは、いつなのか?です。それが定まる物、例えば、子育てが終わったらとか、定年したらなど、必ずある程度確かな展望がある物ということです。だからといって20年30年先というのは、ないに等しいのです。そのあたり、せいぜい3〜5年が限度でしょう。
次に、使わなくても“価値ある物”も分別の対象です。ここでの価値基準もある程度明確なラインを設けると良いですね。
ここからは、二つ目の“S”、整頓です。ここにあるルールは、“使用頻度”です。基準は、単純、“毎日”、“毎週”、“毎月”など、の3段階ぐらいにします。
そして、毎日使う物品は、必ず“使う場所にある”にあること。置き場所は、身体の移動が最も少ない場所となります。例えば引き出しとしても、上下に無理のない高さで、しかも引き出せば“そこにある”という位置に整頓されます。
そして使う頻度の少ない物が、その次の場所、その次、その次となるのですね。
ここからは、“不要品”に仕分けた物品の話になります。これらは、単純に、“捨てる物”と、“売る物”に分けます。
そういう手続きを経て、中古買い取り業者のハードオフに来てもらって、買い取り品を持って行ってもらいました。残りは、燃えるゴミと、不燃物に分別し、近々出すつもりなのでした。
今年の夏は、スーパームーンが3回ありました。一回目の7月12日は、日中は晴れていましたが、夕方に近づくほどに雲が濃くなり、いつの間にか雨が降り出してしまいました。2回目の8月10日は、午前中は雨、午後から雨はやんだものの、期待に反して残念ながら雲厚く満月は現れませんでした。そして、最後のチャンス9月8日。この日は朝から曇りです。お昼になっても空はどんより。そして仕事が終わって着替える時間にもまだ、さっぱりです。日没をインターネットで確かめれば6時10分、月の出は、5時26分。もう東の空に満月が、西の空に夕日が同時に見えてもおかしくないはず……、ですが、残念ながら、どちらの天体も見えないようです。
夕食の時間テレビの報道番組では、日本各地のスーパームーンが撮影され、画面いっぱいに次々と写されているようです。そして、地元のニュース番組でも「出ました!」と、レポーターが……
「えっ!出たの?」と、わたし。
「すごーい、きれい」と、妻。
わたしたちは、食卓を早々にして二階へ上がります。わたしがデジカメを準備している間に、妻は東のカーテン、窓も開けてくれます。そして、カメラをかまえてカシャッカシャッカシャッ!
そして、あれから一ヶ月。一昨日の台風19号が通過して雨もやみ、きょうは朝から天気は上々。期待できます。ネットで調べれば、月の出は午後5時17分。そして日没は午後5時25分です。つまり、東西の地平線にダブル天体ショー!というタイミング!と、思いつきます。でもこちら、東も西にも山の稜線が連なっているため、それはあり得ないのですね。
それはさておき、きょうは、皆既月食なのです。ネットによると、午後6時18分から月食が始まり、7時24分に、完全に地球の影に入り皆既月食になるとあります。
6時台のニュースでも、全国各地からの月食の様子が放映されています。わたしは、帰宅してすぐ、デジカメのバッテリーがフル充電になっていることを確かめて、三脚に乗せていたのです。そして、午後7時、妻と外に出ます。
空を見上げれば一面の雲。せっかくの月食も雲に隠れてしまっています。それに、家々の灯りや街頭などもあって、撮影ポイントとしては、うまくありません。そこで、寄るのウォーキング1km、田園地帯に向かいます。
ときどき空を眺めてみれば、薄雲の向こうにぼんやり月が現れては消え、消えては現れるを繰り返しています。わたしたちは撮影に良さそうなポイントを求めて歩きます。そして、“ここ”と決めて、三脚を据え置き、カメラの電源を入れて、月に向けます。時間は、26分を過ぎました。しかし雲に隠れてしまっています。ときどき雲が薄くなったり、月の一部が現れる程度にはなりますが、ベストコンディションとは言えません。そうして待つこと15分。出ました!
妻が、カメラを操り、次々とシャッターを切ります。
ベストの時間はあっという間でした。また雲がわたしたちと月の間に割り込んできたのです。撮れた写真を後で確かめますと、良い画像は、5枚だけ。タイムスタンプを見れば、いずれも午後7時37分でした。
何はともあれ記念の写真が撮れましたから、わたしたちは、三脚をたたんで帰宅したのです。そしてそれからも、自宅の窓から外を見ていたのです。すると、8時を過ぎると、雲がどんどん晴れてくる様子です。これは、いいかも?そう思ったわたしたち、また、外にでます。わたしの片手には、まだ三脚に固定されたままのカメラと、夜道を照らすLEDランタンがあります。そして、ふたりで道路を南に向かって200m。住宅街を抜けてから、もうしばらく行ったところで、三脚を決め、デジカメの電源を入れます。妻が操作レバーを操り、シャッターチャンスを待てばすぐ、それはやってきました。時間は、午後8時46分。
その後、ポイントを変えて、午後9時1分、12分、25分の撮影を終えて、楽しい皆既月食撮影ウォーキングが終わったのでした。
今年の一大イベントは、やっぱり次男の就職、次に長男の結婚でしょう。そういうことで、“親離れ子離れ”の時期を迎えました。そしてわたしたち夫婦、それぞれ仕事があり、わたしは三年前から大学生の二足のわらじを履いているものですから、あまり趣味の旅行もしなくなっていました。とは言っても、日帰り程度の小旅行は年に数回、やっぱり気晴らし?ストレス解消?は必要と思って、出かけていました。でも、日常から完全に切り離され感のある旅はしていなかったなあと……。そういうことで今年は、行くか久しぶりに!と、二泊三日の長崎旅行を予定に組んだのでした。
わたしたち夫婦の旅は、1カ所滞在型です。まず行き先を決めます。そこに宿を取って、そこからは電車かバス程度、後は徒歩が基本です。子供たちと一緒のときは、いろいろと目的地を巡るタイプの旅もしました。でも今のわたしたち夫婦旅は、目的地は一つか二つパターンが多くなっています。そういうことで、今回の長崎行きの目的地は、“被爆くすのき”だけとしたのです。
長崎に到着して、まずはホテルにチェックイン。時間はまだ昼下がりをちょっと過ぎただけです。
「この辺りを少し歩いてみよう」と、妻に 声をかければ、「そうね、それがいいわね」と、明るく返してくれます。
ホテルを出たわたしたち、近くにあるらしいお寺を事前に調べていましたので、まずは、こちらだろうと当たりを付けて歩き始めます。するとまもなくありました、長崎山清水寺。
いつものことながら、空は快晴。少し歩いただけで汗ばむほどになります。境内は陽光が差し込んでいるからでしょう、季節は晩秋のはずなのに、暑いと思うほどです。境内に人は誰もいません。ありがたく貸し切り気分で、参拝ついでにのんびりさせていただきました。きょうは他に何も予定がないので、時計は御法度。風の向くまま気の向くままです 笑。
お寺から出てきたわたしたち、そのまま街をぶらぶら歩いて、ちょうどお腹がすいてきたところで、たまたま見つけたラーメン屋に入って、ラーメンをいただきました。なんていうお店か、分からないのですが、おいしかったですよ。お店を出たわたしたち、もうしばらく街をぶらぶらして、ホテルに戻ったのでした。
翌日ホテルで朝食を食べてから向かったのは、ニッポンレンタカー。予約していた小型のハイブリッド車に乗り込みまして、カーナビを山王神社にセット。さあ行きましょう!と、クルマをスタートさせます。どこをどう走っているのか、わたしには分かりません。ネットで見れば、電車通りから少し入った長崎大学病院の裏手とあり、住所は、長崎市坂本2-6となっていますが、土地勘ゼロ、頭の中に長崎市の次図がまったくありません。ですので、クルマのような箱の中では、たいていはそとの風景に意識を配らず、他のことを考えていたりします。このときは、1945で遊んでいました。まず、19×45を計算し、855にして、8×55で440。4×40=160にして。その後は、1+9+4+5=19、次に1+9=10、1+0=1にするとか……。これに飽きたら、大学の科目のことを考えるとか、妻としゃべるとか……。
そうこうしているうちに着きました。クルマから降りたわたしたち、山王日吉神社に向かいます。この名称、そういえば、比叡山延暦寺に上がるためのケーブルカーのある坂本を、そして日吉大社も思い出します。もしかして、何か縁があるのかな?とか思いながら……。
「被爆くすのきよ」
「へえ、写真撮るかい?」
「ええ、撮らせていただくわ」
そのようにして片足鳥居の写真も撮りながら、ときどきとまっては周囲の雰囲気を感じながら、のんびり進みます。空はいい天気。ほとんど誰もいませんから、貸し切り気分で、時を過ごします。
わたしたちの場合、お寺や神社に1時間かそこいらいるというのは、いつものことなのです。妻には彼女なりの過ごし方があって、わたしはわたしなりに過ごしています。わたしの場合は、物思いにふけることもありますが、むしろ人を見ていることが多いですね。『えらくせかせか歩く人だなぁ。お賽銭は、音からすると十円玉一枚ね。連れているのは三歳?それとも四歳かな。足を引きずる感じ?膝が悪いのかな』などなど、勝手に想像して遊んでいます。
そこかでお昼を食べたわたしたち……、それがどこかが分からないので、これ以上書きようがないのでご容赦を。妻が、次に坂本龍馬像のある公園に行きたいと言います。クルマを手頃な所に駐めて降りたわたしたち、「ここから登ったところにあるの」と妻が言います。わたしは背中に空っぽのバックパックを背負い、白杖を突いて、妻と並んで歩き出します。とにかく右も左も分からないので、迷ったらこれ!地元の人らしい人に聞く。そうしてそれらしい上り坂にさしかかります。
道はまもなく階段になりました。それを杖で確かめながら、一団一団上がっていきます。
『それにしても重いな。まだそれほど登ってもいないし、ただの階段なのに、なんだか一団上がる毎に身体が重くなる。これはどうしたことか?』
「ちょっと待ってくれ。身体が重くてどうにもならない」
わたしは、妻と雨が降らなければ、それなりにウォーキングで身体を調整しています。ウォーキングのコースには、登坂もあるので、この程度の階段でばてるはずがありません。しかし、一歩ごとに身体が重くなるような感じがします。そしてついに右のふくらはぎがケイレンを起こしてしまったのです。
『えっ!うそ?足がつった!』
それでも我慢して、段を上っていくうちに、左のふくらはぎもつってしまいました。
「足がつった!たのむ、もう歩けない!」
「あそこにベンチがあるの。もうちょっとだから」と、妻。
あり得ないまさかの事態に頭がマッしろ。そのうち太腿の引き攣りはじめ、身体が前のめりに、まるで行き倒れ寸前のような姿になっている気がしてきます。ようやくたどり着いたベンチに腰掛けてみると、全身汗まみれのびしょびしょ。何かがおかしい。これは一体何が起きたのか……。
「なあ、このあたり……、周りは?」
「周りじゅうお墓。ここ墓地の真ん中よ」と、妻。
『やっぱりか』
わたしの背中に、肩に腕に脚に、一体何人乗って捕まっているのか?
『こりゃまいったな。わたしに何ができるというのか?申し訳ない、手に負えない』
そう思った瞬間、あまりの疲労と足の引き攣りの痛みで、もう逃げ出すことしか頭になくなっていました。
「なあ、無理だよ。ここを降りよう。もうこれ以上ここにはいられない」
「そうね。わかったわ、降りましょう」
ベンチからよろよろと立ち上がり、杖で足下を確かめながら、今必死に上がってきた階段を一歩一歩妻に手を引かれながら降りていきます。距離にして、数十メートル、本当に降りていくほどに身体が軽くなっていくのです。そうして坂を降りきったところで、それまでのことが嘘だったかのようになってしまったのです。脚のケイレンもすかり取れていたのです。
この後、別ルート、もちろん上り坂で風頭公園にわたしたちは到着しました。わたしの身体、全然問題なし。あれは一体何だったのか?
この日、レンタカーを返車したわたしたち、夕食を食べてから、その辺りをぶらぶら歩いて、たまたま見つけたバーに入ってみると、男性のバーテンダーさんが一人で切り盛りしているバーでした。そのとき、お客は男性があっちとこっちに一人ずつ。わたしたちはその間のカウンター席について、妻はライトにチャイナブルー、わたしは、ホワイトレディーを。その夜、バーテンダーさんから、珍しいのが入ったからと飲みながらいただいたチーズ?やっぱり疲れていたのかなぁ、覚えていないんですよ 笑。
お客もいつの間にかわたしたちだけになっていたし…… 笑い。
午後の仕事を始めてまもなく、自宅から電話が入っていますと連絡を受けて、病室からリハ室に戻り、受話器を取れば、妻の父が自宅で倒れているとの話でした。そして妻が実家に直行し、次男が迎えに行くから、わたしはそれに乗って行くという話になりました。受話器を置いてすぐにしたことは、きょうは午後を休暇とさせてほしいということを関係部署に伝え、午前の分の記録を作り上げることでした。
次男のクルマに乗り込み妻の実家に向かってもらう途中、いくらか話を聞きましたが、とにかく向こうに着けば全てがはっきりするでしょうと、待つことにしました。そして、着きました。家の前にパトカーが停まっています。玄関から警察官が出入りしているようです。少し離れた所にクルマを駐め、息子と一緒に降りたところに妻の車が来て、隣に駐めます。わたしたち三人、玄関から中に入ると、それに気がついた近くに住んでいる叔母さん--義父の兄の妻--が駆け寄ってきます。
彼女の話は、いつもなら午前のうちに見に行くところ、きょうはいろいろあってお昼を過ぎてからになったとのこと。玄関から呼びかけても返事がないので、鍵も掛かっていないしおかしいなと中に入ってみると、奥の間で倒れていて、声を掛けても身動き一つしないので、あっと思って腰を抜かしたということから、自宅に駆け戻って……。その後、パトカーが来て、医師が来て、そしてわたしたちが来たのだとか。
医師による検死、警察官による近所の聞き込み、わたしたちは、義父は心臓病で入退院があり、かかりつけ医からの処方薬を説明して、警察はそちらに問い合わせをしたりいろいろあって、それらによって、事件性なしの病死となりました。パトカーは警察官たちを乗せて所轄へと、検死を行った医師は、死体検案書を取りに来るようにとわたしたちに言って帰って行かれました。そこからは、5年前の義母さんが亡くなられた後の一連の流れと概ね同じ。違っていることは、わたしも妻も経験者になっているということです。ですから、その記憶に従って、ある意味淡々と進めることができたのです。
三日後の午後4時。一連の“弔いの儀式”が終わり、妻の実家に、わたしと彼女、そして彼女の親戚たちが集まりました。そして、一人、また一人と挨拶を交わして帰って行かれ、とうとうわたしと妻の二人ぼっちになりました。
「終わったね。お疲れ様」
「ありがとう」
「静かになったね」
「……」
「今夜も泊まるよ。とりあえず服を着替えよう。それから何か食べようよ」
「ええ、そうね」
翌日から、また一連の事務的手続きが次々と……。これもまた、経験者ゆえに、ただ淡々とこなすことができたのでした。