美輪明宏さん、トークショー 2019年 1月 4日
使わない物 2019年 6月17日
かたづけ 2019年 8月31日
追突事故 2019年12月 7日
最後の華道部 2019年12月19日
この日、午後休暇をいただいて、午前の仕事が終わるやいなや、着替えて職場を出ました。そこに妻が来て、一緒に近くのホールに向かいます。そこで、待ち合わせの友人たちと合流し、会場に入り、座席に座ります。
そして、1時。開演です。美輪明宏さんがステージに搭乗。
「初めての方、どれくらいいらっしゃいますか?」の美輪さんの問いに、多くの手が上がったのでしょう。彼の生い立ちの話から始まりました。
美輪明宏さんが地元に来ると知ったのは、昨年11月。妻を誘えば一緒にとなり、友人にも知らせれば、ぜひにとなったのです。
その美輪明宏さんを初めて詳しく知ったのは、2006年、オーラの泉というテレビ番組。国分太一さん、美輪明宏さん、江原啓之さんの三人が、毎回芸能人をゲストに呼んでは、その方の前世のことや、先祖からのメッセージなどを伝えて、アドバイスするといった趣向のトークショーです。そもそもテレビを見ないわたしがなぜ?なんですけど、たまたま知人宅で……、だったわけです。それがきっかけで、スピリチュアルに興味を持ち、以後、美輪さんや江原さんの本はもとより、それ以外の方の書いた、そちら系の書籍を次から次へと読んだ5年間がありました。特に前世ものは多かったですね。その一部を紹介すると……、
読んだ中には、説得力の弱いタイプのものもありましたが、『これはなかなかだぞ』と感じた著書もあり、そう思った著者の本は、前世ジャンルを越えて、次々と取り寄せもしましたし、そういう本に必ず付いている、他の書写の書籍紹介も参考にするというのりで、徐々に本が増えていきました。
気がつくと、スピリチュアルのジャンルに縛られることがなくなり、人生哲学や、心理学、自己研鑽に分類される書籍にまで拡散して、たぶん今では数百冊になっているのかもしれません。それら全部を完読したわけではありません。読み始めてすぐ、いくつかの理由で読むことをやめた本も多数ありますね。
さて、美輪明宏さんのトークは、彼がなぜ、どうしてスピリチュアルな世界に踏み込んでいくことになったのか。そして今は?を話し終えたところで、タイムアップ。もっと突っ込んだ話も聞きたいと思いながら、会場を後にしました。
この後、近くの神社に初詣し、喫茶店で友人たちとお茶を楽しんだのでした。
事の始まりは阪神淡路大震災。そして、新潟県中越地震があり、東日本大震災。これらの経験は、わたしに放送大学在学中に、リスクコミュニケーションと、安全・安心と地域マネジメントの単位をとるようにさせました。そしてそこで得た知識は、更にわたしを知識をただの知識にしておかないようにと、突き動かすのです。
14日、いつものように出勤し、朝の申し送りで、明日から数日にわたって行われる大掃除について最終確認が行われました。わたしも関係する一人ではありますが、来週から数日、いつもの業務がほどできません。特に月曜は、オフ同然なので、休暇を入れました。
このタイミングを用いないのはもったいないので、前夜から、“過去二年間使っていない物品”を選別し廃棄に向けて家族と準備を始めていたのです。ここで用いたルールは、10年ほど前に職場で受けた研修、タイトルは『5S』。これは、整理・整頓・清掃・清潔・習慣をローマ字表記しての頭文字“S”が五つあることから作られたものです。詳細は省くとして、使っている物か、既に使っていない物かを判定するために、わたしは、二年を線引きのラインとして用いたのでした。
単純に捨てられるものは、市指定のポリ袋に入れて捨てればよいのです。単純にはいかないものは、しかたないので、手間暇かけるしかありません。
その一つは、形の大きな家具です。ものが良好なものは、これまでも買い取り業者に持ち込んで手放してきました。今目の前にあるのは……。
子供が産まれてすぐ、赤ちゃんの衣類やいろいろをしまうために家具屋で買って、クルマに乗せてきた小型タンス、とにかく必要に迫られて買ってきた、通称算段ボックス。どれも落書きがあったり、シールが貼ってあったり、それにかしいでいたりへこんでいたり。とても売れる物ではありません。
算段ボックスは、木ねじを外せば、簡単に分解できます。分解された板のサイズごとに分けて紐で縛ればオーケーです。たいした手間も掛かりません。これに対して、小型タンスは……。
どこにも木ねじの頭がありません。しかたないので、とりあえず天板から外そうとしますが、ものすごい抵抗があります。そこで、いろいろと工具を駆使して外してみれば、側板、背板との継ぎ目に釘、釘、釘。大中小あるはあるはの釘のオンパレード。それらをあれこれ工具を用いて、どうにか抜き取り、廃棄ねじ釘入れとして用意していた弁当箱サイズの小箱に入れていきます。
次からは、側板と背板、そして引き出しごとに前板、側板、背板、底板と接合部を開いていきます。そのたびに、「どんだけえええええぇぇぇぇぇーーーーー!!!!!」と叫びたくなるほどの釘やら針の類い。算段ボックスから外した木ねじが釘に埋もれてしまうほどの量が取れました。まっさかこんなに釘を使っているとは思いもしませんでした。かかった時間も算段ボックス壊しとは比較になりません。ぐったりです。
ばらばらにした板をサイズごとに分けてビニール紐で縛って、ゴミの日に出すだけです。これと同じ仕事をあといくつかしなければならないのか!?と、思うと先が思いやられます。引き取り規定サイズにするために、のこぎりで切らなければならないものもあるのですから……。
買ってくるときは、誰も捨てるときのことなど思いもしないでしょう。これで便利になる!生活が良くなる!と思っているはずです。わたしもそうでした。でも、気がつくと、とっくに使っていない物の山があってあって、ありまくりなのですから。その総体積もさることながら、重量の合計はいかほどのものか!?
たかだか1キログラムの物でも、それが、2メートルの高さから落ちてきたとしたら、それが身体に当たったととしたら、どれほどの衝撃をうけるでしょう?でも、わたしがやっていることは、そちらが主な理由じゃないのです。
家屋の質量を減らす。特に二階の質量を減らせば、同じ地震の揺れを受けたとしても、家屋が支えなければならない重さが減ります。
こういう実験があります。金槌のグリップを持って、釘を打つように振ってみましょう。
そして、勢いよく風を切っている金槌の動きをとめようとしてみるのです。
次に、その金槌を上下逆さまにして、槌のすぐ下を持って、同じように振ってみましょう。グリップ部分がさっきとは違って軽やかに風を切っているかと思います。
そして、その動きをとめようとします。どうです?軽くとまるでしょう。
持っている金槌の質量は同じです。でも、掌に感じる圧力は、後の方が全然軽いことが分かるはずです。
これと同じ事が、家屋にもいえると思うのです。地震は地面が揺れるのです。家屋は金槌です。仮に同じ質量でも、頭が重いのと、軽いのとでは、揺れを抑えるために必要な力に、格段の差が出るはずです。
はい、これは、横揺れに対しての話です。離れて起きた地震が伝わってくるときの揺れです。こちらの方が確立としては大きいかと思います。
縦揺れ、つまり直下型の地震の場合に対しては、二階が軽いことはもちろんですが、一階だって、軽いにこしたことはないのです。床が受けるストレスを減らす以外、手はないのですから。
6月17日以後も、使わない物の手放し作業を継続しています。わたしと妻、そして子供たちの読んだ本を中古書籍屋に売却し、聞かなくなったCDも売却。衣服も売れるものは売り、売れないものはゴミとして出しました。その結果、空になった本棚や衣装ケースのうち、経年変化の激しいものを廃棄しまし、残りは中古家具として売却。徐々に物が減ってきています。
それにも関わらず、まだまだあるんですよ。きょうは、その中の一つ。籐家具。
子供たちがあかちゃんだったときに主に使用した、五段引き出し式の小物入れ家具。幅45cm、奥行き30cm、高さ120cmの籐製。少しいたみがあり、汚れもあって、売れそうもないので、分解して、燃えるゴミとして出すことにしました。
まずは、引き出し部分を抜き取り、フレームの分解に取りかかります。ところが、これがなかなかの難物。『こんなんありえないでしょ!』と、叫んでしまいたくなるほどの釘、釘、釘。しかも長さ10cmほどもあろうかというほどのごっつい釘も多数あって、それを抜くだけでも手間暇かかり、巻き付けたり、編み込んだりしてある素材、樹皮なのかな?これが、多量の細い釘で押さえてあるのです。これを外すのにも時間と労力がかかり、しかも埃、たぶんかぶって、樹皮の裏に隠れていたものでしょう、がいっぱい出てくるわけです。
とりあえず、フレームの分解、切断、ビニール紐で縛って、床掃除が終わると、夜の7時半。1時間もあればと思っていた自分の甘さに愕然。その6倍もかかってしまいました。
これから、引き出しを解体する?いや、もうやりたくない。疲れ果てた。なんでもいいから、使い道探そう!
それにしても、今回の籐家具もそう。前回の小型タンスもそうだった。まさか、これほどたくさんの釘が使われているとは思ってもいなかった。算段ボックスに、ちょっと毛が生えた程度に考えていた自分の甘さに愕然!
とにかく、これからは買うときに、『これどうやって廃棄するんだ?』を、考えることにしよう。そう思ったのでした。
話は半月前。二階の部屋にあるでかいたんす。妻が婚礼家具として持ってきたもの。これが二階にあるだけで、大きな地震があれば、転倒の危険があるし、それ自体、重さが、床に大きなストレスをかけています。中に入っている衣服を出してみれば、もう既に着ていないトップスやボトムスもそこそこあります。タンスと衣服を合わせれば相当の重量になっているはずです。とにかく着ていようが、いまいが、関係なく全部出してしまえば、タンスそのもの重量だけとなります。
次に、タンスを運び込んだときと逆のプロセス……、外せるパーツは、全部残らず外してしまえば、案外運べるようになるものです。
そこに、県外から応援に着てくれた子供を頼んで、一つずつ二階から一階の、新たなタンスの置き場所へと運び込み、もう一度組み立てればできあがり。
その後、タンスの天板と天井板との間に、タンスを運び出す前に外しておいた、突っ張り棒型地震転倒防止棒を再び入れて、長さを調節すればできあがりです。
後は、少なくなったはず、もう着ることのない衣服を取り除いただけをタンスに入れるだけ……のはずなのに、思ったより多いのです。なぜ?
「どうしよう〜、この礼服。この先、着るよね、葬式で……、というか、冠婚葬祭は、葬式ばかりだし、まだまだ続くよね。なにげに、スーツこそいらなくなってるとか……」
二階に戻ってみれば、「部屋、めっちゃ広くなってない?」と、妻に声をかければ、彼女も圧迫感なくなって良くなったと言います。
とにかく、二階最大の重量物だったタンスがなくなったことで、二階を軽くするという目的は達成されたのでした。
タンスが移動したことで、部屋が広くなり、敷いてあったカーペットの汚れというか、経年変化がすっかり際だってしまいました。これは、新しいものに替えるしかないと、結論したわたしと妻。三日後の土曜日、カーペットを捨てるために、規定のサイズに折りたたみ紐で縛り、床を掃除。カーペットの裏ってこんなに汚れていたんだをはっきり見ることとなったのでした。
そしてすぐ、DIYショップに行って、良さそうな一枚?一巻を買ってきまして、さっそく敷いてみました。この際です、これを機会に更に物減らしを進めましたから、室内は簡素にまとまり、いい感じです。
この日、そろそろクルマを買い換えようと、妻と意見の一致があり、近くのカーディーラーに行きました。理由は単純。わたしと妻しか乗らないのだから、もっと小型で燃費のいいクルマでいいんじゃない!です。
およそクルマは決めてあり、ボディーのカラーも前もって調べていたし、オプション装備もネットで調べ尽くしていましたから、価格も分かっていたし、そういうことでは、「これください」と言いに行っただけです。若かった頃は、カーディーラーに行ってから……でしたけど、最近は、下調べをしっかりしてから気持ち決めて行くので、楽ですよ 笑。
そういうことで、この日も来店、即発注。すぐ次の予定に向かったのでした。
日中の予定全部終わって、家に帰る途中、妻がクルマを停めました。片側一車線の道で、割と交通量多い道です。対向車線は次々と切れることなく走って行きます。妻に聞けば、前を走っていた車が、信号も何もない所で、急に停まったと言います。しかも路肩に寄っていないので、追い越すにも無理があると言います。
後ろに皇族のクルマが停まりました。その後ろもでしょう。その瞬間、ドンッ!と後方に、大きな衝撃音が聞こえました。
そして一瞬の後、バンッ!と聞こえ、すぐにボンッと後ろから音と同時に前へ押しつける衝撃が伝わってきました。
「なんで!?」と、妻が言い、
「当てられたな」と、わたし。
後ろを振り向く妻に、「前は大丈夫だと思う。とりあえず加害者にはなっていない」と言いました。すると妻は、前を見て、「前のクルマが、逃げるように走って行く」と言います。
「とにかく警察に電話しよう」と、わたし。
「もう後ろのクルマが電話してるわ」と、妻。
5分ほどしてパトカーがきて、まもなく警察官が事情聴取にきました。妻が、事の次第を告げると、そのまま待っていてくださいとなりました。しばらくして、救急車が着て、最初に当てられたドライバーが搬送されて行きました。
わたしたちは、さっき行ったカーディーラーに電話し、下取りに出すはずのクルマに追突された旨を連絡し、点検、そして修理、たぶんバンパーの交換が必要になることを覚悟しました。
警察による現場検証と、事情聴取に、たぶん30分以上、駐停車していたのかな。
もともと草花を育てることが好きで、おそらく小学校一年生だった頃に理科だったのか?それとも学研の本についていた付録だったのか?そう思っていただけで、本当はもっと後からだったのかもしれませんが、朝顔をずっと育てています。春に種をまいて、夏から秋にかけて花が咲いて、秋に種を取ってを繰り返して今に至っています。毎年小さめの青い花がたくさん咲きます。ときどき、ちゃんとした種……、大輪白花とか、大輪赤花とか……を買ってきて、一緒に育てたりもしていますから、それらと交雑もあるかもしれませんが、その割には、素朴なままなので、どうかな?です。他にもいろいろと、コスモスとか、ひまわり、サルビア、チューリップとかも育てたりもしました。でも、なぜかずっと続いているのは、朝顔だけです。なぜでしょうかね 笑。
1990年の秋、9月だったか、それとも10月だったのかも?職場には、華道部がありまして、その部長が、「華道やらない?」と、言ってきました。「お花は好きだけど、育てるだけで満足しているから」と、遠回しにお断りしたのです。それでも勧誘してくるので、もう少しはっきりと、お断りしたんですよね。すると、「やってもみないで、何が分かるの!?」みたいに、迫られちゃいました。まだ若かったわたしにとって、年上の女の人に、どんと迫られて、かなりヘビー級でもあったわけで、「わ、わかりました。とりあえず習ってみるだけで……」と、こう言えば逃れられると、その場しのぎの返事をしちゃったんですよね。
これがその後、差し抜きならぬ関係になってしまう……、誤解しないでください。男と女の関係という意味ではありません 笑。
華道部は、たまにイレギュラーがありましたが、概ね第二、第四木曜の月二回。時間は、昼休み。お昼を食べる前に習いに来る部員と、食べてから来る部員のどちらか。わたしは、食べてからで、わたし以外は全員女性。先生は、ちゃんとした華道の先生の資格を持ったその当時五十代前半の女性。
とにかく適当に習って、そのうち“見込みなし”の烙印を押されるあたりで、すーっと退部すればいいやと思って毎回部室になっている会議室に行っていました。
先生は、誰にでも丁寧に教えてくださいます。ただし、ナースや介護士は、夜勤や休日勤務があるので、出勤スケジュールによっては、数ヶ月ぶりになる生徒さんも珍しくないのです。ところが、わたしは毎回です。嫌でも覚えるというか、覚えざるを得ないのでして、そうなると、教える方も熱が入ってきます。気がつけば、わたしの生けた花が、その日の代表作として、会議室に留め置かれるなんて日もあったり、病院玄関に置かれたり……。でもこれは、相対的にそうだというのでして、絶対的にではないですよ。
2000年に介護保険が始まったのですが、そのぐらいから、昼休み時間に華道を習いに来る生徒さんが減ってきました。理由は簡単。人数が減って、仕事が増えたからとしておきましょう。2010年あたりで部員数は半減していたと思いますが、その前年、それまで華道部長を務めていた女性、わたしを無理矢理華道部に引き込んだ当人ですが、体調不良で、退職されました。
その後は、部長を作らず、それでも副部長的な女性の方が、世話役を引き受けられ、華道部は存続し続けましたが、その方も定年を機会に退職。それからは、わたし他、数名で運営を続けたのでした。
2017年あたりから、お花の先生も80才に近づき、休みがちになり、代理先生が担当されることも増えてきていました。そして80才を過ぎて、入院を機会に、一線を退かれることとなり、ピンチヒッターの先生が最後の華道指導においでになられたのでした。
きょうは、わたしが教室の準備をしました。代理先生は、予定より少し早めに来られましたので、しばらく入院中の先生のことなどをうかがいながら、生け花の指導を受けました。わたしの生けたお花は、そのままお手本となり、全ての生徒さんたちの指導が終わるまで、そのままです。そして、代理先生に、閉部のご挨拶をして、お見送りの後、かたづけ、掃除、最期に、わたしの生けたお花を持ち帰りバッグに入れて、入部まもなく買った花ばさみをきれいにしてからケースに入れたのでした。
p. s.
それにしても、読み直してみると、思い出美化強いなぁと思います。
思い起こせば、最初の頃は、何回生けても、わたしの生け花、影も形も残らないほど、徹底的にお直しされちゃいましたもの。悔しいったらありゃしません。家に持って帰る途中で、ぽいっと捨てちゃったこともあるし、自宅に持ち帰ったまま、床の片隅に放りだして、何週間。気がついたら、枯れ果ててたことも何度合ったことか。でも、そんな風になっちゃったお花を見ると、なんだかごめんなさいって、自分の不出来さっていうのかな、お花のせいにしちゃってごめんなさいみたいな感じ。それで、だんだん、どうにかしたくなって、自宅に持って帰ってきてから、先生にお直しされた形を思い出して、生けてみるんですよ。
それと、最初の頃は、“うまく生けてやる”、“どうだ上手だろ!”みたいな気負いがあって、うまく生けた気になってるんですけど、やっぱり、先生にだめだしされちゃうんですよ。それが月二回、一年で24回、十年で240回も続けると、さすがに分かるっていうのかな、いや、やっぱそんだけお直しされたら、いくら何でも分かりますよね。そしたら、いつからだったか忘れてしまいましたけど、そのうち、聞いてるんですよ、お花に、「どうしたいの?どこにどんな風に建ちたいの?教えてください」みたいなこと。そんな感じで生けていると、後からあまりお直しされなくなってきたんですね。たぶん、15年ぐらい経ってからでしょうね。
今は、生ける前に、一本ずつ手に持って、枝振りとか、お花の向き、開き具合を手で触りながら聞いています。きっと変な人に見えます。一本ずつ持っては卸、また持っては卸を繰り返して、そして花ばさみを持ったら、パツパツパツと切ったと思ったら、ポンポンポンポンと剣山に刺して、生け始めたら数分もかけずに終わっちゃうのですから。
1990年10月からの華道部を通算すると702回。これまで、たぶん、20回ぐらいお休みしたでしょうから、差し引き、682回かな。せめて、その一割分ぐらい、自分のものになっていたらいいなって思います 笑。