ハーモニカ 2016年 3月 5日
磯野波平 2016年 5月 1日
めまい 2016年 6月21日
命題 2016年 7月28日
前世 2016年 8月 3日
箱根、そして…… 2016年11月26日
そして江ノ島 2016年11月27日
自己研鑽、それとも自己啓発? 2016年12月18日
これは、わたしの職場であったことから、始まった物語です。
八十歳を過ぎた男性が、入院している彼の妻のためにときどき枕元でハーモニカを吹いていました。
吹いている曲は、うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ...
ゆうやけこやけのあかとんぼ...
はるこうろうのはなのえん...
など、誰でも口ずさむことのできる懐かしの歌ばかりです。
それらの曲は、彼の口元から静かに流れ出し、彼の愛する妻の身体を優しく暖かく包むように広がり、病室を静かに満たしていました。
その高齢の男性は、足が不自由になっていましたが、寝たきりの妻のためにほとんど毎日お見舞いに来ています。
わたしは病室に入って、一度聞いてみたことがあります。すると、ハーモニカは小学生の頃に習ったものだと言います。そして、ずっとヤマハのこれを使っていると言ってポケットから出して吹いて見せてくれました。
年が変わり、その女性の容態は徐々に悪くなってきて、そのことに呼応するかのように、その男性の気力も落ちてきているようです。そういえば1月になってから、ハーモニカが彼の手にないことに気づきました。
どうしたのだろうと聞いてみますと、ハーモニカをどこかにやってしまった。探せばあるのかもしれないが、そうしたくても思うように身体が動かないと言います。
わたしは、その大切なハーモニカを探しに行きたいと思いました。しかし、そのようなことを言っていいものかどうか迷っていました。その時ふと思ったのです。同じようなものがあればいい。まさかそんな昔のハーモニカがあるはずはありません。でも、よく似たモデルがあるかもしれません。もし、見つかれば、使ってもらおう。彼の愛する妻のために……。そう思ったのです。
そして家に帰ってすぐ、インターネットで探してみました。ところがたかがハーモニカ。されどハーモニカ。1本五百円のものから、果ては二十万円にもなろうという高価なものまであります。それら1本ずつピックアップして、商品の情報
を読んでみますが分かりません。知らない単語がいくつも出てくるのです。ブルースハーモニカとは?10ホールズハーモニカって?複音ハーモニカって何?クロマチックハーモニカ?そういえば小学校1年生の音楽の時間に吹いた覚えがあります。でも、そのような言葉を聞いたのだろうか?分かりません。説明分を読んでも、いまいちです。しょうがないので、お値段で推しはかろうとしてみます。
それにしても、まさか1本五百円のような安物... と書くと多少語弊があるかもしれないけど、そのようなものでちゃんと音が出るものだろうか?だからといって一万円を越えるというのもどうかと思うし……。
そこで、もう一度ざっと見て見ると、ハーモニカのお値段って、1本千円程度か、一万円を越えるかのどちらかのようです。どうしてでしょう?
そのような中で、三千円ほどのが見つかりました。『これならいいかもしれない』と、さんざん悩んだあげく、注文。そしてそれは土曜に届きました。
月曜にそれを持って出勤し、朝一番に、その病室に行ってみると、ベッドはからっぽ。間に合わなかったことをその場で悟りました。そして、手に持ったハーモニカを、やり場のない思いで持っているしかなかったのです。
ふと気がつくと、あれからもう一ヶ月。季節はもう春になりつつあります。『ちょっと吹いてみようかな』と、ケースから出して吹いてみます。音は、あの男性の吹いていたものとは異なり、もっとふんわりした音色です。
『これが複音ハーモニカなのか……』
昨年11月、わたしを混乱の渦中に投げ込んだ人が辞めるのと入れ替わるように、リハビリの専門士二人が配属されました。わたしは、『これで良くなる』と、喜びました。でも、その期待はまもなく、もろくも崩れ去りました。二人は、わたしとコミュニケーションを取ろうとしないのです。そしてまもなく、直感したのです。
そして数ヶ月それなりに考えましたが、わたしは直感のまま、リハビリから去ることを決意し、マッサージの専門部署として独立させていただくこととなったのです。本日から、新しく設立した部署の責任者です。とはいっても、わたし意外誰もいませんので、お気楽です。昨日までのような“ややこしい部署内人間関係”とは、きれいさっぱりおさらば。あの悩ましかった日々が嘘のようです。
それにしても、やっぱり思うのは、人間とは、なんと不可解な生き物なのだろうか!?です。
この気持ちはいつからなのだろうか?と思い出をたどれば……。
わたしは、親から褒められた記憶がありません。もしかしたらあったのかもしれませんが、当人たちに聞けば褒めたと言うかもしれないのですけど、わたしにはないのです。わたしの記憶に色濃くあるのは、褒められたとは全く逆、罵倒の言葉の数々。これがひどかったのが父です。地元の方言でありったけの卑語で罵倒されたことしか思い出せません。母からは、自分の配偶者に対する不満、文句の数々。子供心ながら、『そんなに嫌なら別れたらいいのに』と思いました。そして成人して視覚障害者になってからは、いつまで経っても馬鹿扱い。半人前どころか、十分の一人前もない有様です。確かに身体的虐待は受け手いませんが、心理的にはかなりあると自覚しています。
類は友なのでしょうかねぇ。思い返せばなぜか不可解な人が周りに多かったような気がします。それがわたしに心理学を学ぶようにしむけたのでしょうか?とにかく、あまり回らない頭をどうにか回して、ここまできました。ふと気がつくと、あの人気アニメ サザエさんのお父さん、磯野波平さんと同じ年齢になっています。
それにしても、人間とは、なんと不可解な生き物なのだろうか!?
16日木曜。きょうもマッサージの仕事をしていました。そして午前11時、午前最後の患者さんのところに行き、マッサージを始めました。と、そのとき、突然異変がおきたのです。
ユラーリ ユラリ、ユラーリ ユラリ
『世界が揺れている?いや、わたしが揺れている?めまいなのか?動揺性のめまい。メニエールなのか?』
どうにかマッサージを終えて、ベッドから廊下へ向かおうととしますが、方向が定まらないのです。やっとのことで部屋の入口のドアまでたどり着きましたが、そこからがたいへんです。背中をいったん廊下の壁に押しつけ、背中の感覚で方向を定めて、動揺に気を取られないように、まっすぐ文だし、そして廊下の反対側に向かいます。歩数を数えてピタリ!到着。そこからは手すりに手を掛けてゆっくりと……。まるでふわふわ空中に浮いているような、それとも大波にもまれている船の上にいるような、そんな感じです。これまで軽いめまいになったことはありましたが、こんなひどいのは初めてです。一体何が起きたのか?
その日、どうにか午後の仕事をして帰宅しましたが、めまいは一向に収まる気配がありません。わたしを気遣う妻には大丈夫だと言いながらも、内心、『こりゃまともじゃない』と……。
翌朝、目が覚めても世界は揺れて揺れて揺れまくり。仕事に行けそうもありません。結局休みの電話をかけて寝床に逆戻りです。そして翌土曜日。夜もなかなか熟睡できず、早朝覚醒。その後も全くめまいが泊まる気配ありません。やはり行くべきだろうと、耳鼻科に連れて行ってもらいました。診断の結果、耳鼻科疾患の疑いなし。そうなると、脳梗塞など、脳の疾患が疑われることになります。そこでそちらにかかってみましたが、そちらも問題なし。風邪症候群でしょうとなって、妻と帰宅したのです。
「だいじょうぶ?」と、妻。
「だいじょうぶ。揺れているだけだ。気持ち悪くはないんだ。聴覚も問題ないし、本当に他には何も起きていないんだ。だから分からないんだけど」
「ご飯食べる?」
「食べるよ。食欲はある。ただ、仕事してないので、お腹あまり減ってないけど」
その日も何も変わらないまま夜を迎え、床に就きました。そして深夜1時半。電話が鳴りました。
『いったいこんな時間に、しかもこんな時に……と、思いながら』どうにか起き上がり、電話のところに行きます。受話器を耳に当てれば、それは叔母さんでした。
「もしもし」
「おばあちゃんが亡くなったの」
2016年1月に百歳の記念パーティーをしたおばあちゃんが亡くなったという連絡だったのです。
その日の朝、続々と親戚が駆けつける中、わたしはめまいがひどいため、動くことができないと連絡を入れました。今夜の通夜はしかたないとして、明日の葬儀もこのままじゃあ無理かなぁ……と、ほとんど諦め気分だったのです。ところが、なぜか、少しずつではありますが、めまいが軽くなっていくのです。
「それってもしかして、虫の知らせかしら?」と、妻。
わたしより、ずっとスピリチュアルな感受性の強い彼女が言うのですから、なんだかだんだんそんな気がしてきました。
わたしは、これまでに奇妙な体験をしたことがあります。たとえば、ある日の未明のことでした。妙にリアルな夢を見ていることに気がついたのです。それは、わたしの家の隣の家の玄関の光景です。『一体これは?』と、思っていると、いつどこから出てきたのか、ふと見ると玄関のところに炎があるのです。その炎は、ゆっくりと上下左右に動いて行きながら、通った痕を黒くこがしていくのですね。そのうち炎は、玄関の周囲の壁も黒く焦がして行って、家を真っ黒にして消えたのです。『なんて夢なんだ』と、思いながら目覚め、時計を確かめ、また眠りに就いたのです。そして翌朝、隣のご主人が亡くなったことを知らされました。時間は、わたしが時計を確かめた、ちょうどその時間だったのでした。
また、こんな夢も見ました。ふと気がつくと目の前に白衣姿のナースがいます。彼女は、わたしに、「面会されますか?」と、優しく問いかけるのです。何のことか分からずに、黙っていると、「これが最期になりますよ」と言って、わたしの視界から薄れて言ったのです。『一体この夢は?』と思いながら、枕元の時計で時間を確かめ、また眠りに就いたのです。それからまもなく電話がかかってきて、妻の祖母が、亡くなったとの知らせでした。時間は、やっぱりあの夢をみた時間だったのです。
一夜明けた月曜。めまいは、まだ残っているものの、生活動作にそれほど支障がなくなっていました。ですので、その日の一番列車に妻と乗り込み、葬儀に参列しました。
『ばあちゃん、知らせてくれたんだね。ありがとう。でも、もう少しお手柔らかに頼むよ。身体がひっくり返るかと思ったんだからね』
高校2年が終わる頃、もしかして2月?その当時落ちこぼれていたわたし、学校に行かず、もんもんとしていたかもしれません。記憶として、一体何時だったのか?たまたまつけたテレビ、チャンネルはNHKの教育だと思うのです。
わたしは何のために生まれてきたのか?何のために?何のために?何のために?……
何のために生きるのか?生きるのか?生きるのか?生きるのか?……
そしてどこに行くのか?行くのか?行くのか?行くのか?……
それを見て、固まってしまいました。『そうだ、わたしは一体何のために生まれてきたのか?なぜ生きているのか?そしてどこに行くのか?』を、何度も心の中で繰り返していました。このことが、わたしを変えました。詳しくは、2011年のエッセイにあります。
高校を卒業して、親から離れたくて東京に行きました。そのとき、行き先はどこでも良かったのです。大阪にも受験目的で行きました。とにかく一人になりたかったのです。
東京では、多くの人との出会いがあり、東京が故郷の人もいましたし、わたしのように、田舎から出てきた人もいました。そういった人たちとの熱い関係があって、それはそれで、今でもとても感謝しています。
ただ、それとは別に、個人的に“死”にとても興味がありました。いつのことだったか、池袋の西口をぶらぶらしていて、マルイの近くの書店に立ち寄ったときのことです。ふと目に留まった本があり、タイトルは“安楽死”でした。わたしは、迷わずそれを手に取って、立ち読みして、すぐにレジに持って行きました。これを書いている今となっては、いつどこから出版された書籍だったのかが分からないのですが、むさぼるよに読んだ思い出があります。
そういう気持ちがあったからなのか、こんなふうに繋がっていったのだなぁと思う出来事があったのです。それは、後年、たまたま池袋で知り合った人を通じて送ってもらったビデオテープ……、アルフォンス・デーケン教授の講義だったのです。この先生、生まれはドイツで、どういういきさつだったか、日本に移り住み、そのまま定住、上智大学の哲学の先生になったという方です。ビデオで見た内容は、この先生、哲学の教授なのですけど、専門は“死”です。ですから、“死の哲学の先生”、通称”死哲のデーケン”です。ここまで書けばどなたもおわかりになるかと思います。より良く死にたければ、より良く生きろ!という話なのですね。
そのあたりの経験が、もしかして、わたしを高齢者の医療介護の現場に誘ったのかもしれないと、今では思っています。
今年5月1日をもって、リハビリからマッサージに移籍しました。もちろん、悩ましい日々がありました。ありましたが、ある意味で、立ち戻った?若返り?“死”をもう一度考え直すきっかけとなったと思います。
より良く死にたければ、より良く生きろ!
また、その手の書籍を読む契機になったのです。“死”ではなく、“生”ですね。人生哲学でしょうかね 笑。
前世、それは輪廻転生。“人は何度も生まれ変わる”という話があります。ここでそのことの真偽は取り扱わないので、そのようにお願いします。
このことに興味を持って、その後積極的になったのは、2006年、たまたま知人宅で見たテレビ番組 オーラの泉 です。この番組は、国分太一さん、美輪明宏さんと、江原啓之さんがレギュラーの出演者で、そこに芸能人を招いては、その人の前世や、先祖からのメッセージを美輪明宏さんと、江原啓之さんが霊視して伝えるというものです。何回か見たと思うのですけど、出演していたゲストとして記憶にあるのは、今では松田聖子さんぐらいです。他の方は忘れてしまいました 笑。
その頃は、研修会通いがありましたから、あまり気を散らしてもどうかということで、頭の隅っこに置くぐらいにして、2007年3月末の試験が終わってからですね、インターネットでスピリチュアル関係の書籍を検索しては、おもしろそうなものを注文しては読んでいました。その中で多く買い求めたものに前世を扱った書籍がありましたね。読んでみて、これいまいちかなと思ったものは、途中で閉じてしまったものもいくらかはありましたが、概ね完読したと思います。
それら書籍の中で、ブライアン L. ワイス博士の著書は、しっかり読みました。ワイス博士はアメリカの精神科医師です。博士が1980年に精神科の治療手法として催眠術を使っていたときに、患者が前世を思い出すという思いがけない出来事があり、以来、治療の手法として必要ならば、催眠術によって、前世を想起することを行ってきているのですね。それが書籍としてまとめられ、邦訳されたものは全部取り寄せて読みました。例えばこれです。
ここまで書いてふと思い出したことがあります。それは関口宏のワンダーゾーン。1992年4月から翌年3月まで放映していたテレビ番組です。たぶん、そのどれかの回でやっていたように思うのですが、内容は、幼児に前世の記憶を聞くというものです。ざっと、このような感じだったと思います。
「お母さんのお腹の中にいたこと覚えている?」
「覚えているよ」
「どうだったの?」
「暖かくて気持ちよかった」
「じゃあ、お母さんのお腹の中に来る前のことは覚えている?」
「覚えているよ」
「どこにいたの?」
「一人でいたよ」
「それはどこなの?」
……
このように産まれる前の記憶を聞くと、その子は答えるのですね。それを見たわたし、さっそく長男、当時5才に聞きました。すると、0才の記憶があり、産まれる瞬間も覚えていました。驚いたのは、妻のお腹の中にいたことをリアルに語りましたし、わたしが胎児だった彼に話しかけたこともです。そして、妻のお腹の中に来る前にいた場所も言いましたし、さらには、その前、つまり前世ですね、そのときの名前まで言うのです。おったまげました。やっぱり前世ってあるんだぁと……。
その後、日常に流されて、そういうことがあったことも忘れてしまい、気がついたら次男が7才ぐらいのときに、ふとしたことから思い出したのです。それで、次男に聞きましたら、0才ぐらいまでは思い出してくれました。でもそれより前は思い出せないとのことでした。もちろん、そのときの長男は、もうとっくに3才ぐらいより前のことは思い出せないと言っていました。ほんと、残念なことをしました。もう3、4年前に思い出して、次男に聞いておけばよかったのに…、と思いました 笑。
話を戻しまして、わたしが読んだ前世ものの中で、他にも目を引いた書籍があったのです。それは、
なんとか、この方、鈴木さんに会えないだろうかと、その名前でネット検索しました。ところが、同姓同名の別人しかヒットしませんでした。時期もちょうどわたしが大学生になって余裕なかったせいもあり、ぱっと見で、あきらめていたのです。
時が経って、仕事と、学生、二足のわらじ生活が板に付いた2013年11月。たまたまインターネットで検索しましたら案外簡単に見つけることができました。そうなればメールを送るだけ。すぐにそうして、翌月、会いに行ったのですね。もちろん、著書を持って行くことは忘れませんし、ちゃんとサインもいただいてきました 笑。
そのとき、催眠術による退行……、つまりだんだんと過去に戻る手続きもしていただきました。でも、わたしも妻も、あまり退行できなかったのです。特に妻のときに、ちょうど震度3ぐらいの地震があり、うまくいきませんでした。ですから時期を変えてもう一度と思っていたのですね。
時が流れて昨年暮れ、もう一度会っていただきたいとメールしました。そして今度は、わたしたちが催眠状態になるのではなく、鈴木さんご自身が見る方法でとお願いしたのです。
平塚駅を出たところで鈴木さんは待っていてくださいました。相変わらずチャーミングな方です。そこからクルマで移動し、とある静かな喫茶店でわたしと妻の前世リーディングが始まったのです。
リーディングであかされたことは、わたしと妻、二人は、前世で出会いがあったとのことです。そして二人は恋仲になっていたのですが、場所が場所、今のような自由な恋愛ができる時台じゃなかったため二人の関係は成就しなかったようです。今世は、その続きとのことです。
この他もいくつかリーディングしていただき、とても有意義でうれしい時間をいただきました。その後、鈴木さんには、心からの感謝を伝えてわたしたちは帰途に就いたのです。
今年3月末に放送大学での学業を終了し、少しゆとりができましたから、スピリチュアル関連の書籍も少し読み始めました。しかし、気がついたらもうこんな年齢です。次のことを、定年後のことを真剣に考えなければならないでしょう。そういう意味でも、今回のスピリチュアルな経験は、良い材料だったと思うのですね。本当に鈴木さんには、心より感謝しています。
2年前の春、4月に妻と初めて箱根に来ました。あのとき、とてもすてきなことがありました。今回もそういうことがあるかどうか分かりませんが、妻は前回と違うルート……、前回はバス、今回は電車でと言うので、そういうことになりました。
JRで小田原駅。時間は10時半あたり。小田急に乗り換えようと、歩いて行くと、券売機の前に長蛇の列を発見。とにかく並ぼうと寄っていくと、駅員さんがちょうどタイミング良くやってきました。これは聞いた方がいいと、相談を持ちかけますと、フリーパス4000円がおとくとのこと。すぐそうしたのです。
ネットで今回の旅程をを検索しますと、11:05発→12:58着、1時間53分(乗車1時間27分)、乗換:4回、全長20.2km、総額3,020円と出ました。
順番 | 駅 | 交通手段 | 料金 |
---|---|---|---|
1 | 小田原 | 箱根登山鉄道・箱根湯本行 | 310円 |
2 | 箱根湯本 | 箱根登山鉄道・強羅行 | 400円 |
3 | 強羅(ごうら) | 箱根登山鉄道箱根登山ケーブル・早雲山行 | 420円 |
4 | 早雲山(そううんざん) | 箱根ロープウェイ・大涌谷行 | 840円 |
5 | 大涌谷(おおわくだに) | 箱根ロープウェイ・桃源台行 | 1,050円 |
小田原駅ホームに入線していた電車に乗ると、券売機の混雑からは想像も付かないくらいすいていました。あれ?と思って妻と座席に座ってすぐ、あっという間に満員電車に、静かな車内は、おしゃべりのるつぼとなってしまいました。やっぱり秋の紅葉シーズン。こうなるよね 笑。
箱根湯本駅で電車を降りたわたしたち、次の電車に乗り換えるために3番ホームを目指して歩いていきます。そこに待っていたのは、かつて池袋新宿間を走っていた朝の山手線で経験したような満員電車。正直「あちゃあー」です。乗ろうと思えば、乗れなくもありません。でも、乗り遅れたからといって、遅刻するわけじゃありません。
「これ、見送ろう。次のに乗ろうよ」
「ええ、そうね」
次の電車は、よゆうで座席に座ることができました。と、思う間もなくどんな電車になったかは、ご想像にお任せします 笑。
この電車はかなりの急勾配を登るため、3回のスイッチバックと急カーブする線路をゆっくりと走っていきます。そのために、標高が上がるほどに山の表情が変わっていくのをゆっくりと楽しむことができます。
どれくらい登った頃でしょうか、一昨日に降った雪が景色に混じり込むようになりました。雪と紅葉。いいと思います。感嘆の声にまじってカメラのシャッター音があちらこちらから聞こえてきます。
しかし、わたしの前の女性乗客二人、果たして20代か30代か?ボックス席のため、1mほどしか離れていませんので、会話がダイレクトに聞こえてしまうのです。乗車時間40分、延々と仕事や家庭の、とても個人的な話……、夫への愚痴、というかもはや苦情レベル。職場の上司の文句、文句、文句。
『そんなにいやなら別れちゃいなよ』、『そんな会社辞めちゃいなよ』
『ここまで来て、なんでそんなこと……。ああそう、不特定多数に聞いてもらいたいわけね』
そう思うと、この人たちいったいどういう女性?どういう関係?など、つい観察を……、ったくこまったものです 笑。
楽しかった?わたしのヒューマンウォッチングタイムも終わり、次の乗り物、ケーブルカーへと、移動が始まりました。そして、次の駅でロープウエイです。どちらの車両でも運良く座ることができまして、運良く熟年夫婦、三十才代の夫婦、二十歳代の恋人同士、それから高校生のグループと場の共有ができまして、ずっと楽しくヒューマンウォッチングさせていただくことができました。どもです、 笑。
大涌谷に着く直前、ロープウエイの中から、真っ白になった富士山を一瞬望める機会がありまして、思わず「やったね!」です。
そこで、大涌谷でロープウエイを降りたわたしたち、乗り継ぎを見送って、富士山探しに出たのです。すると、ありました。富士山が見える場所が。すかさずパチリ!いい写真が撮れました。そこは標高1,044メートルです。
旅程は……、あってないようなおぼろげなものでしたが、一応すっかり遅れているようです。昼食のために売店に戻ってみると、さっき並んでいたおにぎりもサンドイッチもなにもかにもきれいさっぱりありません。上の食堂の前には長い列ができていました。そこで、駅横の黒たまご売り場に向かうことにしたのです。
そこは多くの観光客であふれていましたが、どんどん流れています。わたしたちも列についていくことにしました。そして、黒たまご5コを二人で分け合って食べて、ロープウエイに乗り込んだのです。
大涌谷から乗ったロープウエイは、それまでの登りとは逆に下り。少しずつ標高が下がっていきます。途中、日光を反射して輝く湖面を楽しめるポイントがあり、木々の色づきとあいまってとてもきれいな光景を見せてくれます。乗り合わせた家族、小学生?それより小さい子供も楽しそうです。
16分間の快適な晩秋の眺望をいただいたわたしたちは、駅構内の食堂に向かいました。と、そこにたった一つ空いたテーブルがあります。わたしたちは、パンと珈琲を持ってそこに座り、おいしくお昼をいただいたのです。ふと、振り返った妻が、「お店の前に列ができてる」と言います。「今回も運がいいね」と、わたし。
遅いランチを終えて、時計は、午後2時45分になりました。もう一時間半ほど遅れていますが、気にしません。駅を出たわたしたちは、前回歩いた道を歩き始めます。目的地は、箱根九頭龍神社です。
道は、歩道から、林の中の舗装道路へと変わり、紅葉した落ち葉で埋め尽くされた天然の絨毯さながらの様子となります。固い舗装道路とは異なり軽くクッションのきいた感触です。妻は、黄色い絨毯、赤いそれ、茶色のカーペットの演出に観劇しています。そういう道を登ったり降りたりを繰り返し、最期の下り坂が終わった時、九頭龍神社に到着。時間は、3時25分になろうとしていました。
500円を払い神社境内に入ったその時、わたしたちは、太陽が西の山の無香に沈む瞬間を見るという幸運に恵まれました。そらは、昼から夜に向かってきれいなグラデーションを見せてくれます。芦ノ湖も太陽の光を反射しなくなり、一面蒼が濃くなっていきます。境内は、参拝する人もいなくなり、そこにいるのはわたしと妻の二人だけ。もうすっかり貸し切りです。
パワースポットで有名。なのに誰もいないのです。これは、あのとき……、2年前4月6日のときと同じです。お天気は全く違いますが、こうしてプライベートにしていただいたことに対して、感謝しかありません。
その思いに満たされてゆっくりと参拝をして、いつまでもここに……と、ふと気がつくと、時間は閉園時間を過ぎて4時20分になろうとしています。空は夜の一歩手前。残念ながら出なければなりません。わたしたちは受付の女性にお礼を言って神社を後にしたのです。
そこに待っているのは、あのアップダウンの道。来るとき30分以上かけて来た道を戻らなければなりません。しかも5時出航の船がきょうのラストなのですから、同じペースで行くわけにはいきません。でも、日頃のウォーキングの成果がこういうときに役に立ちます。なんと4時45分には、芦ノ湖を渡る最終便の待合の列に並んでいたのですから 笑。
この日、船は満員続きになっていると、九頭竜神社に向かう前に聞いていました。ですから船着き場に5時の出帆ぎりぎりに着いたとしても乗船打ち切り、乗れないかもしれないと言われていたのです。もちろん、船がだめなら陸路があります。それでも船に乗りたかったので、けっこうパワー出ちゃいましたね 笑。
桃源台に戻った時、既に乗船待ちの長い行列ができていました。でも、なぜか乗れない気がしなかったのです。ふと後ろをみれば、更に列が延びています。そして、およそ10分後、わたしたちは船の甲板の上にいたのです。
午後5時、船は港を離れました。わたしと妻は、選手甲板の左、あの神社側に位置して湖面の向こうに向かいます。お天気は上々。気温はどんどん下がってきています。寒い!ダウンジャケットのファスナーをしっかり閉めて暗闇の向こうの九頭竜神社に感謝の気持ちでいたのでした。
翌朝、ホテルを9時にチェックアウトし、昨日第二の目的地であった箱根神社に路線バスで向かいました。お天気上々。予報では雨となっています。
降りたバス停は、元箱根。そこから徒歩5分。まもなく鳥居です。鳥居をくぐれば、石段です。そこを上がってみれば、多くの人たちが所狭しと歩いています。しかも結婚式が二組もいらっしゃるわけで、「おめでとう!」のハッピーな人たちで埋め尽くされてもいます。となれば、そこはそこ、さらりと参拝して、芦ノ湖の湖畔へと石段を降りていきます。が、そこもやはり多くの人でいっぱいです。そこで、湖畔の道をゆっくりとバス停に向かって歩くことにしたのです。秋の終わりの軟らかい朝日を少し受けながらの湖畔の散歩の気持ちいいこと……。
ふと気がつくと誰もいません。「もしかして、またプライベート?」と、そのとき、ピシャッ、パシャという水が跳ねる音。妻が湖面をのぞき込みますが、分かりません。もしかしてお魚が挨拶に来てくれた?まさか、 笑い。
わたしたちは、そこからバス停へと向かったのでした。
バスは快適に坂を下っていきます。枯れ葉の木々が、紅葉の木々に変わり、徐々に標高が下がり、季節が戻っていっていることがわかります。もしかして、このまま行くことができるかも?と思い込み始めた頃、バスは動かなくなりました。やはり渋滞です。そのとき、運転手から「渋滞につき、お急ぎの方は、ここで下車し、近くの電車へ乗り換えることをおすすめします」とアナウンスがあり、それではと、わたしたちを含むほとんどの乗客が電車へと降りたのです。
駅に着いてみると、発車寸前の電車がいます。わたしたちはフリーパスを見せることで、バスから来た乗客たち全員から抜け出して電車へと近づくことができ、乗り込んだ瞬間ドアが閉じられ、駅を発車したのです。そこにはたまたま空席が並んで二つ。わたしたちを待っていてくれました。
車窓から外を眺めていた妻が、「うわあ、大渋滞よ。あのままバスに乗っていたら、きっとあの中にいることになったのね」
こうして箱根湯本、そこから小田原。ほんとついてる。神社の御利益に違いありません。感謝しかありません。
小田原からJRで藤沢、そこから小田急で片瀬江ノ島。天気予報では藤沢は雨。でも、大丈夫。そんな気がしていたのです。
電車を降りて、江ノ島に向かうために海沿いに向かいます。わたしたちの目的地は徒歩で40分かかるなと思っていたら、そこにモーターボートで島の突端まで運んでくれると言うので、400円を払って、即乗船。たまたま乗り合わせた家族の子供たちと和気藹々としているうちに、着きました。桟橋に下りてみれば、江ノ島の完全に向こう側。やったね、35分ほどをワープしてきちゃった! 笑。
時間は午後1時。お腹がすいてきました。その桟橋から島の頂上に向かっていく階段沿いに食道が並んでいるようです。それに、今回の目的地としていた、江ノ島の岩屋辺りは混雑している模様。となれば、腹ごしらえからだろうと、階段を登ることにしたのです。
ちょうど登り切る直前に、おいしそうなお店発見。さっそく入ることにしました。シラスどんぶりがおいしいというので、わたしはそれを、妻はサザエのどんぶりを注文。待つことしばし、おいしそうな料理が……、「おいしいね」、「おいしいわ」と、あっという間にいただいてしまいました。
お店を出るとき、江ノ島神社への道順を教えてもらい、そちらに向かうことにしました。と、そのとき、小さなお社があることに気がつきます。小さいだけにお参りする人もなく、ひっそりとしています。わたしたち、なんとなくそのままそこでお参りして、行き交う人たちを眺めるでもなく、なんとなく……。「そろそろ行ってみようか」
江ノ島神社に着いてみて愕然!参拝客、いったいどれだけいるの?長い列が... 一度列んでみたけど、とてもじゃない感じ。
「どうする?なんか無理っぽいというか、出ようか」
「そうね」
列から抜け出して、今来た道を通って、もう一度さっきの小さなお社の前へと逆戻りしたのです。そのとき小雨が降り出してきました。小雨といっても傘のいらない程度の雨。ふと見ると、あれほどいた人の流れがすっかりなくなってきています。そうして、ボートから降り立った桟橋に向かって階段を下りてみれば、モーターボートの運航は終了したとの看板が出ています。
これで、足で歩いて帰るしかなくなりました。ということは、ここまでわざわざ来る人もいなくなったとも言えます。そうして行ってみれば、岩屋はすっかり静かになっています。
これは運がいいと、さっそくチケットを買って入場。
第一岩屋と第二岩屋があって、第一岩屋は、一番奥でさらに二股になっています。まず、第一岩屋の一番奥まで行ってみます。が、あまり感じる気がしないので、一度戻ってみます。入り口近くまで戻ったとき、ふと... 感じるものがあって、そこに留まっていると、その瞬間、頭上で誰かがノックというには、大きな音一発。
「竜神さまのご挨拶。岩屋の天井から小石を1こ、落とされた」
わたしたちは、手を取り合って笑い合っています。通りかかった人たちは、どう思っただろうか?と思いますが、おかしくてしかたがないので、こればかりはどうしようもありません。
いちおう、岩屋は、落石対策に天井の岩肌との間に屋根が葺いてあります。どうやら、そこに落ちたらしいのです。
この後、第二岩屋にも入ってみましたが、あまりピンとこなかったので、さっきの場所、小石でノックのあった所に戻りました。ふとみると、フェンスで岩屋の側壁と通路が区切られていて、その間に池か、流れがあって、わたしたちのいるところにだけ、小魚がいると妻は言います。
「お魚も、龍神さまに会いに来ているのかな」
不思議な体験をしたわたしたちは、岩屋を出て、帰るために階段を上り、とそのとき、昼食をいただいた食道の前で、「お帰りなさい」、「ただいま」で、デザートをいただくことにしたのです。時間は、4時。もう日没も近い。ふと、昨日の九頭竜神社と同じ、『プライベートにしていただいている』と、思わず感謝です。
この後、江ノ島から電車の駅まで、ずっと小雨。濡れない程度の雨。
「来て良かった」
今年、特に5月から、これまで読まなかった書籍を多く読みました。書店の売り場では“自己研鑽”、あるいは“自己啓発”のような分類になるタイプの本を多く取り寄せて読みました。
それにしても自己研鑽とは?よく聞く単語ですが、どういう意味の単語なのでしょう?まず新明解国語辞典 第七版で“研鑽”を引いてみると、“着実に 研究する こと。”とあります。では、“研究”で引いてみると“問題になる事柄についてよく調べて事実を明らかにしたり 理論を打ち立てたり すること。”と出ます。
なんだか分かったような……。そこで、“自己研鑽”でネット検索してみますと、いろいろと出てきます。それらをまとめるとこういうことになるのかな……。
“自分の得意とするジャンルを磨いて鍛えて、向上させ、自ら自身を高めること。”
でしょうか。
これに対して、自己啓発の“啓発”を辞書引きしますと、“(専門家としての観点から)一般の人が看過しがちな問題および問題点について、知識を与えること。”と出ます。それでは“自己啓発”になるとどうなるのかな?をネット検索して、それをまとめると……、
“自分の知識や能力の向上を自ら行うこと。”
ぐらいになるのかなぁです。
つまり、自己研鑽は、“自分の得意とすることを伸ばせ”で、自己啓発は、“オールラウンダーでいけ!”みたいなニュアンスでしょうか。
そういうことでは、今年好んで読んでいる書籍は、自己研鑽側でしょうね。完全に“心理”に偏っています。一言で心と言ってもいろいろありますが、わたしが特に着目して読んでいるもの、それは“無意識”とか、“潜在意識”と言われるものです。よく氷山に例えられますね。海面から突き出ている部分が“意識”で、海中に沈んでいる大部分が“無意識”というやつ。無意識が大部分なのですから、わたしたちは意識で生活を送っているつもりでも、案外無意識にコントロールされているんだよって話。だれでも一度や二度ぐらい聞いたことあるでしょう。
そうなんです、その意識と無意識にまつわる本を次々と取り寄せては読んでいるのです。人間という不可解極まりない生き物を少しでも分かりたいと思っているからです。
本を読んで、『なるほど』と、いたく感心すれば、それを書いた当人に会いたくなるというのが人情というものでしょう。ということで、きょう、その方が、東京でセミナーを開きますと聞いたのですから、会いに行こう!直接話を聞こう!と行ってきたのです。しかも、今日のセミナーは、少人数限定セミナー。講師先生とのマン・ツーマン質疑応答あり。ごっつ中身濃いやつだったので、ほんと良かったです。会場が恵比寿だったので、帰り恵比寿でビール飲んで気持ちよく帰ってきちゃいましたぁ! 笑
六日前の13日。この日も、ぜひ会いたい、直接話を聞きたいと思う方のセミナーがありました。が、残念ながら、それを実行に移すことができませんでした。ですが、人気のある方でしたので、オンラインでの聴講チケットが出まして、これは渡りに船!と、その日は仕事を休みにして、自宅でオンラインの生配信セミナーを受講していたのです。
学校の勉強ですと、得意も不得意も区別鳴く全部やらなければなりませんが、特異なこと、好きなこと、やりたいことにパワーを傾注できる自己研鑽は、やっぱいいですよ。今回聞いたこと、来年から?いえ、きょうから活かしていこう!って、誰に言われなくても思えますものね 笑。